監督にとってのプロデューサーの存在とは、結局、監督の資質に還元される一種の才能の在り処みたいなものか。
と、言うのは近ごろとんと監督注文がない僕の繰り言なのであるが、まだ一三本の映画と少々のテレビドラマとバブルのころのコマーシャルしか撮っていないキャリア不足から自己分析して相対関係にあるプロデューサーを論じると、曖昧だが、しっかりと僕の映画に存在してくれる存在、と無理矢理思いこんでしまうのである。 早い話が、同世代の才能たちと仕事をしてこなかったツケも来ている。やや早熟のため、気がつけば生意気盛りのころの僕に真摯につき合ってくれたプロデューサー達は皆、僕よりかなり年がいった方か、ないしはうんと年下の明日の才能としての俊英たちだった。でも、それが今日の僕を保証しているのだからこれは文句ではない。ただ単に、思いこみが激しい僕の意味のない稚拙さが同世代のプロデューサーを避けていた事実が横たわっているだけだ。 |
正直言えば後から後から追いかけてくる若い才能と、それを積極的に支える同世代のプロデューサー達の仕事ぶりがよく理解できずに単純な嫉妬をして何だかんだと難癖をつけているのだろう・・・・・多分。 |
研ぎすまされた感性や内省と内向の集積としての小さな物語が増えてきたと感じているのは僕の考えすぎなのかな。それとも、同世代のプロデューサー達の時代への答えがこんな傾向なのだろうか。デビュー時から、世界に向かって大風呂敷系の僕のこと、どうも繊細でない自分を合理化している節もなきにしも非ずだが、取りあえず、こんな僕でよかったら仕事はともかく楽しい法螺合戦でもしてみませんか。 |