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私の新人時代

合川 明  (NHK)
 昭和二七年、 新橋田村町のNHKスタジオはラジオの殿堂、 窓から都電通りの激しい赤旗の行進が見えた。 アメリカの検閲下でも、 「君の名は」 「日曜娯楽版」 と全盛期で、 しゃれたベレー帽の演出部だった。 同期からたゞ一人、 テレビは肉体労働、 使いべ減りしないキミと、 「テレビ準備室」 に"左遷"された。 テレビはラジオにたかる"金喰虫"とも言われた。 かくしてラジオは私の第一の仮想敵となった。 売れない新劇役者、 落語漫才を乗せて、 毎日ボンネットバスは砧村の 「技術研究所」 に通う。 三茶辺りから肥料の臭い、 蝶の舞う葉の花畑を過ぎて、 仮設スタジオに到着。 リハーサル、 実験放送。 芝生で野球や、 すき鍋と、 まだまだのどかなもの。 むしろ張りの灼熱のスタジオから金語楼の熱演を三越にカラー実験中継もした。 特攻隊の生き残り、 女形、 ロック座のブタカン、 気弱な直木賞作家シミ正 (胡桃沢耕央) ともども、 フロアを這い廻った。 二十八年、 開局準備で三日徹夜、 大道具、 字幕書きまでやる。 僅か五台のカメラを駆使して、 祝典、 帝劇、 日比谷公会堂の笠置シヅ子の買物ブギで、 "万才!!"一同品川の常宿の大風呂に飛びこんで、 子供のようにはしゃいだ。 翌朝から歌と色物のナマ放送、 カブキ下見、 ドラマのリハ、 夜はクイズとドラマの生出しと、 永久にエンドレスなテレビ放送がスタートした。 毎月が超過勤務百時間と最悪。 「どたんば」 で完徹、 玄関ロビーで泥々で寝ていたら、 朝出社の会長や、 ベレー組にまでなじられた。 いつも飢えて、 せかれて、 追われながら、 "今に見てろ"とてつもなく"オモロイ"もの創ったると、 ギラギラしてた。 たゞ街はやさしく、 銭湯、 麻雀、 呑み屋、 質屋。 NHKロゴ入りの秒時計を入れる奴。 母の形見、 はては歌番組の切符で信用借りしては、 烏森のトリスバーで呑み明した。 杉葉子の伊豆ロケで、 貧弱な手巻きのアイモカメラに、 何の測量?と村人にきかれて絶句。 トチリ王、 左卜全、 上田吉二郎の愛嬌。 厳禁の秘画 「ポチョムキン」 「革命」 の凄さに一人密室で震えた。 ショックだった。 イタリアロケ (二つの橋) には、 「赤穂浪士」 「花の生涯」 の文庫本を持参、 その構想を任されていた。 最良のドラマ創りに、 映画五社の 「スター出演拒否」 の協定は大きな壁だった。 TBSの石川甫の 「マンモスタワー」 は、 テレビが映画に勝つ未来図ドラマ、 「君、 ほんとにこんこと信じてるの」 と東宝藤本重役に嘲笑されたと。 石川、 橋本信也と、 "今に見てろ"と乾杯した。 京橋の大映本社 「日蓮」 の大ポスターの下で、 永田ラッパ社長に 「うちの重役スター (長谷川一夫) を電気紙芝居ごときに、 出すわけない。 帰り給え」 と怒鳴られた。
"紙芝居"と"一億総白痴化"はテレビを嘲る当時の流行語だった。 夏草茂るエビスの東京映画、 佐藤ピンPDに香川、 淡島の交渉。 佐田君次第だと、 小津監督の温容。 長沢局長に支えられ、 第二の仮想敵とも折り合えて、 漸く 「大河ドラマ」 に辿り着く。 テレビ発足から十年目。 佐田主膳、 淡島たか。 長谷川一夫大石の誕生、 滝沢秀衡、 芥川頼朝。 文吾と東野、 露口。 深く関わった中野実、 水上先生からは、 "芝居"と男の"本性"を学ぶ。 スラリと白の薩摩上布、 大佛先生と武原はんの稲荷祭り、 粋と颯爽の銀座。 寿海の 「伊勢音頭」 海老サマの 「与三郎」。 「入谷」 の長いスネとそば。 花柳 「鶴次郎」 北村和夫 「チェリー」 の幕切れ。 喜和子のお吉、 紫の踊り…。 戦傷は四度の胃潰瘍。 まだ生きての想い出酒。 さて、 只今の"安直テレビ"を第三のマト標的にと据えたいが、 もう時も気力も失せた。
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