
昭和三十年春、 日活に入社した私は二ヶ月間の劇場研修を終えると直ちに撮影所製作部に配属されました。 前年の秋に映画製作を再開したばかりなのに、 月八本全プロを目標に遮二無二量産体制を押し進めていた撮影所へ、 私が希望した職場なので仕方ないのですが、 ぽーんと放り込まれた感じでした。 そのころの監督陣は、 田坂具隆、 久松静児、 マキノ雅弘、 滝沢英輔、 川島雄三監督など、 巨匠、 ベテランが顔をそろえ、 のちに日活の最盛期を監督として支える中平康、 斉藤武市、 鈴木清順、 蔵原惟繕、 舛田利雄監督達は、 まだ助監督でした。
製作部には壁いっぱいの大きな黒板があり、 準備中をいれて常時十組以上のスケジュールでいっぱいになっていて、 その各組を統括し予算やスケジュールを調整する製作事務の仕事をすることになり、 プロデューサー、 製作担当者、 助監督、 美術デザイナーなどに、 よく言えば教えられ、 悪く言えば小突かれながら右往左往する日が続きました。 朝九時から夜八時、 九時はしょっちゅうで、 下手すると夜間ロケの応援にかり出され、 徹夜になることも珍しくなく、 多忙さが故に短期間で仕事を覚え、 一年も経つと周りのスタッフが若かったこともあり、 いっぱしのカツドウヤのように振る舞い、 それなりに責任を持たされ始めていました。 私はステージのスケジュールを任され、 十三のステージを各組のセットスケジュールに合わせてどう回転させるか、 建て込み日数、 装飾の時間、 解体時間などを交渉し、 撮影のセット拘束をどうするかなど、 そんな事の連続を美術課や各組のスケジュール担当者とけんか腰でやり合う毎日でした。
昭和三十一年、 石原裕次郎の出現から昭和三十年代の最盛期に入ります。 一時は年間百本を超える、 今まで想像もし難い量産体制が敷かれ、 その熱気のなかでただひたすら走り続けました。
街ではジルバが流行りはじめ、 キャンパスでは新しい運動が動き出していました。