初春の およろこびを 申し上げます

会長   杉田成道

明けましておめでとうございます。
 昨今は、 出口の見えないイラク戦争、 イスラエルをめぐる緊張、 近くは北朝鮮問題と、 混沌とした中に、 目には見えないマグマが地中にたまって爆発を待っているような、 すっきりとした寝覚めとは言い難い新年になりました。 新潟地震の罹災者の方々は、 何よりまして、 重い新年を迎えられたことでしょう。
 それでも、 長い長い低迷から底を脱しつつある経済は、 景気の中折れを危惧しつつも、 多少の楽観論は見えてきたような気がいたします。 我々の関係するところで言えば、 薄型テレビの予想以上の伸張は、 テレビのデジタル時代を一気に早める方向に向かうであろうし、 青色DVDと呼ばれる多情報DVDの規格戦争は、 映画を含めたソフトの価値というものを一気に押し上げる結果となりました。
 その中で、 昨年のドラマの潮流は目に見える変化がありました。 何より、 テレビの 「冬ソナ」 の現象です。 韓流と呼ばれた風俗現象は、 驚くべき流れを生み出しました。 オバサン族がトレンドを作る。 しかも不倫ではなく、 ノスタルジックな純愛ドラマで。 結果として、 40、 50代の物言わぬ女性の与える社会的側面が、 いかに大きくなるかを、 我々に知らしめることになりました。 時代を動かす、 新しい世代の台頭とも言えましょう。
 同時に、 映画では若者に対する 「純愛」 路線が圧倒的支持を得る結果になりました。 テレビでは、 「白い巨塔」 「弟」 の存在がありました。 時代の振り子が、 ゆっくりとではあるが、 確かな方向性を見せ始めたような気がいたします。
 映像世界においては今、 地球儀はどんどん縮小しているような気がしてなりません。 あれほど傲慢であったハリウッドが企画の出口を求めてもがいています。 企画を世界に求めています。 地球規模で、 企画が世界を巡る時代が到来したように思えます。 アジアが当面、 標的となるでしょう。 その時、 声を発するのは、 中国であるか、 韓国であるか、 日本であるか。
 映像は、 かつて我々が想像した映像の概念を超えて、 雑多なあらゆるものを含んで、 ジュラシックパークの恐竜のように、 その姿を変えています。 残念ながら、 私たちは観客であることは出来ないようです。 では今、 私たちに何が出来るのでしょうか。 何も出来ないかもしれません。 が、 しかし、 時代をとらえる目だけは持つことが出来る。 時の流れを見つめる確かな目だけは持つことが出来る。 地に足が着いたと言えるような、 そんな目を持つ以外に我々のアイデンティティはあるのでしょうか。
 プロデューサー協会は今、 方向性の模索を始めています。 先行きが見えないからこそ、 カンテラが必要で、 協会員一人一人が、 そのカンテラになる、 そうした自覚が必要になってきました。 考えてみましょう。 一人一人が、 想いを乗せて……。  

次世代の 映像作家を育てる

映画美学校 代表理事   松本正道
 映画美学校は、 アテネ・フラ ンセ文化センターとユーロスペースの共同プロジェクトとして1997年にはじまった。 当初は講義も実習もアテネ・フランセで行っていたが、 98年に試写室と教室を備えた施設を京橋につくり、 年々それを充実させながら今日に至っている。 2000年には、 東京都より特定非営利活動法人(NPO)の認証を受け独立した法人となった。
 映画美学校は 「学校」 となっているが、 映画の研修センター、 すこし気取って言えば 「実験工房」 のようなものだと思っている。 若者からシニアまで、 アマチュアからプロフェッショナルまで、 幅広いキャリアを持った人々が集って映画表現の可能性を考えながら試行錯誤を繰り返す、 そんな場所を目指している。 だから、 社会人でも受講できるよう講義も実習も、
平日の夜と土曜日曜しか行わない。 さすがに映画製作に入るとこの原則通りにはいかない。 それでも撮影時期をゴールデンウイークに設定したりと、 できる限りの対応をしている。
 カリキュラムの特色は、 実習を中心としていることだ、 体を動かしながら考える、 その積み重ねが重要だ。 DVや16mmカメラを使った実習が目白押しである。 初等科では、 16mmの短編映画を4本製作する。 フィルムの時代が終わりかけているとは言っても、 充分な準備が必要で、 編集時にコマ単位で考えられる16mmフィルムは、 きわめて優れた教育用のツールである。 映画をめぐるテクノロジーが劇的に変化している時代だが、 初等科では可能なかぎりフィルムにこだわりたいと思っている。 この初等科作品の中から、 これまでに9本の作品がカンヌ映画祭シネフォンダシオン部門やオーバーハウゼン映画祭コンペティション部門などで上映されている。
 映画美学校の修了生名簿の中には 『呪怨』 の清水崇監督のような人もいる。 ただ、 それは映画美学校が育成したことを意味しない。 彼の長い映画活動の一時期に2つの上映団体が設立した 「実験工房」 に身を置いた、 という事実が存在するだけだ。 そして 「実験工房」 を運営する側としては、 これからも多くの 「映画作家」 が通過してくれることを願っている。
 
大阪芸術大学   中島貞夫
 大阪芸術大学映像学科の方針は、 徹底して自由な個性的作品を創れ創れにある。 その為には……。 新入生に決って言う言葉がある。 「君達が本学科を選んだのは、 自己表現の手段として映像を選んだということだろう。 ならばまず映像表現の基礎的知識と技術だけはきっちりと身につけて欲しい」。
 そしてその基礎的知識の習得の為に行っているのが16ミリフィルムによる映画づくり、 アナログ教育である。 その理由を詳述するスペースはないが、 要は映像作品づくりのノウハウの基本は映画製作の歴史の中で確立されており、 更にフィルムを使うことで手づくりの感性が重視出来るということである。
 幸い歴史の浅い本学科からも何人かの映画監督や映像作家が育ってくれたし、 多くの人材が制作現場の様々な分野で活躍し始めている。 特に実作系の大学院が出来てからは、 海外からの留学生も含め、 国内外の映画祭でもその評価を得始めている。 前述したように作品は自由で個性的であることに徹した結果だろうと信じている。
 一方で単に自主映画的映画づくりの世界だけではなく、 厳しい業界のプロとの接点も模索し始めている。 その手始めが、 何か新しい仕組みを考えることで、 実際に放映可能なTVドラマの制作を行うことが出来ないか、 こうした発想から独立U局であの京都放送 (KBS)、 サンTV、 TV神奈川との産学協同ドラマの制作は始った。 当然これには局サイドの思いきった決断と大学当局の大いなる理解が不可欠だったが、 結果に対する自信というよりはこの試みの面白さに両者は乗ってくれた。 製作は大学院の研究室を中心に近々の卒業生と意欲的な学生で、 そこそこのクオリティは確保可能だと考えた。
 初年の試みに続き昨年も 「ヒナの魂」 を製作。 何よりもこの試みの中からヒナ達がたくましく育ってくれることを願っている。
『映画・映像の拠点 撮影所で学ぶ』
日活芸術学院  事務局長   南島慎一
 日活撮影所の一角にキャンパスをもつ日活芸術学院は、 一九七五年創立から今年四月に創立三十年を迎える。
 撮影所の機能を生かして即戦力になり得る人材を育てるという教育方針のもと多数の卒業生を映画・映像業界に送り出してきた。
 映画製作は、 企画から撮影、 仕上げまで各パートのスタッフに支えられて完成に至る。
 撮影所はかつて、 各パートの社員スタッフを徒弟制度に近いかたちで抱えて、 量をこなし、 技術を伝承し、 質を高めていった。
 しかし各映画会社は、 演出部を始めとして社員スタッフを採用しなくなり、 今日では日本映画の製作はほとんどフリーのスタッフに支えられている。
 日活芸術学院は、 業界の人材育成の危機感から設立に至った。
 授業内容は、 映画製作システムに則った実習中心のカリキュラムになっている。
 それは撮影所が培っているプロフェッショナルな技術集団の育成に他ならない。
 映画業界は、 資格制度というものが意味を持たないが、 実際は技術力と実力がものをいう世界である。
 そのために本校はあえて学校法人ではなく、 いわゆる企業立無認可校にしている。
 既存の学校教育では修得できないプロの現場の技術に即応した指導を行うためである。
 特色のひとつとして、 本校が創業以来取り入れている 「現場実習制度」 がある。
 一年次に優秀である学生を、 二年次になってからプロの製作現場に実習生として派遣する制度である。
 これにより学生は、 将来の職業を現実的に結びつける機会となり、 またスタッフとの繋がりも在学中に築けることになる。
 撮影所は今でも、 映画・映像製作の拠点であることは、 変わらない。
 大御所の大先輩から若手のスタッフまで、 撮影所で活動している方々に講師や実習指導をお願いしている。
 学生たちが、 この現場の空気と刺激を心と身体で感じ、 次世代を担う人材となることを願っている。
『日本映画学校の成果』
日本映画学校   佐藤忠男
前身の横浜放送映画学院から数えると今年で創立三十年になる日本映画学校が、 いかに数多くの人材を映画界、 テレビ界などに送り出してきたかということは、 この業界内ではよく知られたことである。 三池崇史、 本広克行、 佐々部清、 李相日などの監督たち、 脚本家の鄭義信、 山本英夫キャメラマン、 小説家で映画批評の最前衛でもある阿部和重、 などなどは目立つ場所にいるが、 知る人ぞ知る編集その他の裏方の名手は数えきれない。
 近年はまた、 卒業制作の作品などで一般の劇場で有料公開される例が珍しくなくなった。 ごく近年だけでも−
  「ファザーレス/父なき時代」
  「あんによんキムチ」
  「青〜Chong」
  「home」
  「熊笹の遺言」
 など、 マスコミで積極的に取りあげられて評判になった作品がある。 それらは単に上出来の習作というのでなく、 映画史的に見てもいまの日本映画の最も若い層、 新しい層の代表的な作品として評価できると私は信じている。 当然、 劇場だけでなくテレビなどでも積極的にオン・エアされていい秀作が少なからずあると自負している。
 以上のような成果がいかにして得られたか。 それは、 創立者今村昌平の 「人間に興味を持て」 という教育方針から生み出された 「人間研究」 その他のユニークな授業のあり方、 現場の監督やプロデューサーや脚本家、 技術者などに多数来ていただいて実習本位の指導をしていただいていること、 さらに近年はプロの俳優さんたちが学生作品にも出演して下さるようになったことが大きい。
 昔の撮影所は小学校や旧制中学の学歴の人たちを多数、 世界的な巨匠に育てあげた。 それは普通の大学などとは比較にならない立派な教育機関だったのだ。 だから普通の大学とは違う、 昔の撮影所のような映画学校にしたい。 それが私の理想であり、 現にそうなっていると思う。 ぜひ実習の作品を見て下さい。 上映、 放映したくなる作品が少なくないはずです。 いつでもごらんにいれます。 これは校長としての広告ではなく、 批評家、 映画史家としての責任にかけて言うことです。

会員年男 新年の抱負を語る

昭和8年生
梅浦洋一
出会い
 六回目の 『年おとこ』 です。
 トシのせいか、 過去五回を想い返す気になりました。
 一回目、 その年、 日本は敗戦の混乱と失意の中にありました。 私は疎開していた山梨から東京に戻り、 ちりぢりになっていたクラスメートと再会の喜びに浸っていました。
 二回目。 二十四才の私は、 東宝撮影所のスタッフとして二本の映画に参加しました。 一本は 『青い山脈』 (司葉子・宝田明主演、 松林宗恵監督)。 もう一本は 『夜の鴎』 (田中澄江脚本、 佐分利信監督主演) という異色作。
 この出会いが十二年後に生きるのです。
 三回目のその年、 私はテレビ部に異動となり、 テレビドラマ 『顔』 をプロデュースして居ました。 脚本・田中澄江さん、 主演・司葉子さん、 佐分利信さんでした。
 この年制作した別の刑事ドラマでは、 三年後からスタートする 『太陽にほえろ!』 のパートナー岡田晋吉氏と出会って居ます。 当時、 石原裕次郎さんの邸宅は東宝撮影所のすぐ近くにあり、 私は毎日その前を通っていたのですが 『太陽にほえろ!』 の主役とプロデューサーという立場で度々お邪魔する様になるとは想像もつかない事でした。
 四回目。 この年一九八一年は、 その裕次郎さんが大動脈瘤破裂の危機となった年です。 この時の様子は先般放送されたドラマ 『弟』 に描かれた通りです。 生還した裕次郎さんが病院の屋上に現れてファンに手を振る姿は生涯忘れ得ぬ映像です。 とりわけ全快して現場復帰した時の裕次郎さんの勇姿はテレビで全国放送され 『太陽にほえろ!』 は永遠なのだと錯覚しそうになる程でした。 喜びは一瞬でした。 この後、 次々と襲い来る病と斗い続けた裕次郎さんは七年後に力尽き 『太陽にほえろ!』 も終焉を迎えます。
 五回目。 六十才の私は東宝から東京映画新社へ転じ、 新しい仲間と二時間ドラマと取組みます。
 そして七十二才の今年。
 こうして振り返ってみると、 節目々々での出会いに依って触発され力を与えられ、 幸運がもたらされ、 今日がある事を実感します。
 今、 更なる"出会い"の期待に心ときめかせて居ます。 それがプロデューサーとして私の新しい泉になる事を願いつつ−。
昭和20年生
松竹 (株) 代表取締役副会長   大谷信義
 ある経済雑誌から取材を求められたのは暑い秋が少し涼しくなった頃だった。 取材理由を聞いて自分が年男になるのだとようやく分かった。 ならば還暦か。 すぐにはそんな気がしなかったが、 年賀状のデザインを考えて実感が深くなった。 そこへ本会の原稿依頼。 六十年だからもう逃げられない年なのだと観念した。
 今年は 「松竹110周年」 の年にあたる。 京都の新京極で白井松次郎、 大谷竹次郎の双子の兄弟が (松次郎は白井家の婿養子となっていた) 芝居の金主兼仕打ちとなり仕事を始めたのが110年前である。 仕打ちは言わば 「プロデューサー」 である。 これをもって 「松竹」 のスタートとしている。
 であるから松竹は今年種々の行事を考えている。 三月の 「勘三郎」 襲名もその一つである。 邦画の製作にもより力を注いでいく。 「映画」 の会社として百年を越えるのは世界でも珍しいらしく、 ある外国の映画人が話題にしてくれる。 正確には 「映画と演劇」 なのだけれども。 ちなみにその年はルミエール兄弟の映画上映の年でもある。
 そういう訳なので自分としても松竹110周年の年に年男、 しかも還暦を迎える。 気持ちを新たに"酉年"らしく、 明るく頑張って行こうと思う。
昭和32年生
(テレビ朝日)   佐藤凉一
 そんなことで今年は年男、 なんだそうだ。
 この原稿を書くことがなければ、 本人もそうとは気づかぬままに、 この一年も過ごすことになったのかも知れない。 子どもの持つ体内時計と大人のそれは違うとはよく言われる事だが、 実際、 一年があっという間に過ぎていき、 しかも年々そのスピードは加速されてしまっているようだ。
 どこかに年齢を置き忘れてきた、 そんな実感。 でもそれは、 我々のような業界で仕事をするには、 必要なことかも知れないが。
 あらためて年男の抱負はといわれても、 そんな大層なことを持ち合せているわけでないが、 ただ無事に日々が過ごせれば、 なんて悟りきった心境であるわけもなく、 48歳というのは実に何となくそんな中途半端な年齢だ。
 今年は、 頑張らないことにしようと思う。
 テレビ視聴サンプルでいうと、 我々年代はM2 (34〜49才) と呼ばれる。 一番テレビを見ない、 あるいは見たくとも見られない層である。 実際忙しい年代なのだ。 かく言う自分もドラマを作る立場にいながらも、 生でその放送を見ることは正直全然というほどない。 他の人の作った作品を含めて、 周りとは遮断された空間で、 VTRという手段でドラマを見る。 結果、 その作品のクオリティが高いか低いかの論議に終始しがちだ。 それはあまりに普通の視聴感覚とはかけ離れすぎてはいないか?
 大事なのは、 その日その時間でそのドラマがどういう環境で放送されているか、 どういう気分で視聴されているのかを知ることだ。 本当のニーズを知る根本はそこにあるのではないかと思う。 その時間の環境で見たくなるドラマとは−制作者である前に、 一人の視聴者の皮膚感覚でそれを実感していたい。
 だから今年は、 仕事をあんまり頑張らないで、 なるべく早めに家に帰り、 普通の人の感覚でドラマを見ることにした。 そして、 その結果を来年には出せるように頑張ろうっと。
 おっーと、 頑張らないんだった。
昭和44年生
(ビービービー)   河合伴明
干支を迎えることは回数によって異なる
 一度目の年男は十二歳、 二度目は二十四のとき。 これは誰でも間違いなくそうなのであるから、 年男であることなど、 "私"の主張を強調される現代の我々にとって、 自分に特別なこととして気にかけるわけも無いのが、 ごくごく自然であるだろう。 近頃の成人式の虚構さも、 同様の理由からであろうか。 三度目の年男もそのように迎え、 過ぎていくのだろうと、 ぼんやり考えていた。 ところが三度目は、 なにやらこれまでと、 少し様子を異にしているのである。
 "三度目は様子が異なる"と書いたのは、 単に年月を持って、 いやおれも人生の半ばを過ぎたナ、 などと感慨しているのではない。 三度目にしてようやく、 時間軸と交錯して存在する他の多くの軸の存在に、 意識しはじめた、 ということを言いたかったのであろうか。 それは社会に対する自分の役割、 有用性、 またはそれらへの債務などを推し量ってみるとき、 そこに規則化できない"個"が存在するわけで、 時間軸のみの平坦な"誰にでも来る干支"ではなく、 社会への自分の立ち位置というとても個別的な軸を意識しはじめた"私"の発露に気づくとき、 三度目の干支が意識されたのである。
人生は立体的だから生きる価値がある。 齢をとらなければ解らないことというのは、 実際にあるものなのだ。 複雑に整備された社会制度下における"私"のきわどさから、 「十干十二支」 という単位を持って、 自分の存在を確かめようとした古人の行為が、 とても理解できる。
 日本的干支における酉年の位置づけは、 次のように本に書いてある。
【鳥:人に時を報せる動物
  「とり」 は"とりこむ"と言われ、 商売などには縁起の良い親切で世話好き】
本当であれば、 私は天職に就いていることとなる。 自分自身を省みて果たして報いているか否か・・・
 もとい、 かくあるべし、 ということなのだろう。
 仕事において私生活において、 今春自分は、 自分を取り巻く世界へ、 いかな豆をまけるのか、 思いをめぐらせるのである。
輝く!2005年エランドール賞
授賞式・新春パーティーのお知らせ
歴史ある恒例のエランドール賞作品賞・プロデューサー賞・新人賞・特別賞の授賞式ならびに新春パーティーを次の通り開催します。
万障お繰り合わせの上ご出席下さい。
(日時)
平成17年2月17日 (木) 午後6時30分より
 
(場所)
新宿京王プラザホテル南館5Fエミネンスホール
 
(パーティー会費)
   

一般協会会員は、 毎月の会費に含まれています。
賛助会員・功労会員・地方会員の出席者は、 会費8,000円です。
一般の出席者は、 会費15,000円です。

 
会員の皆様の多数のご参加をお待ち申し上げます。
「2005ザ・ヒットメーカー」 選考のお願い!!
4月18日に 「プロデューサーズ・セミナー」 が開催されます。
当セミナー内にて 「ヒットメーカー」 の顕彰、 「パネルディスカッション」 を行います。
つきましては、 会員各位の投票をお願いします。 (投票ハガキ同封)
尚、 下記はノミネート案ですのでリスト以外の方でも自由にご記入下さい。 投票〆切りは1月末日です。
(フェスタ委員会)
ザ・ヒットメーカー2005ノミネート表


 

「世界の中心で、 愛をさけぶ」
プロデューサー 春名 慶
「半落ち」
プロデューサー 中曽根千治
「いま、 会いにゆきます」
プロデューサー 春名 慶
「隠し剣 鬼の爪」
監督 山田洋次
「ハウルの動く城」
プロデューサー 鈴木敏夫
「呪怨」
監督 清水 崇



「弟」
プロデューサー 小林正彦
「白い巨塔」
制作統括 大多 亮
「たったひとつのたからもの」
プロデューサー 前田伸一郎
「大奥 第一章」
企画 保原賢一郎
「黒革の手帖」
チーフプロデューサー 五十嵐文郎

 
「いま、 会いにゆきます」
著者 市川拓司
「電車男」
著者 中野独人
「キッパリ!」
著者 上大岡トメ
「グッドラック」
ポプラ社 編集長
「負け犬の遠吠え」
著者 酒井順子


「冬のソナタ」
冬ソナの仕掛け人 (NHKプロデューサー)
「松本 幸四郎」
各局に出演、 めざましい活躍
「宮里優」
プロゴルファー宮里三人兄妹を育てた父
「松平 健」
「マツケンサンバ」 で盛り上がる舞台
◎正会員入会
谷口卓敬
(NHK)
金井卓也
(CX)
栗原美和子
(CX)
鈴木吉弘
(CX)
長部聡介
(CX)
宮本理江子
(CX)
◎退会
       
豊田紀雄
(C)
         
 ○会議の記録
12月6日 (月)
ヒットメーカー委員会
(事務局)
12月8日 (水)
第6回定例理事会
(NHKエンタープライズ21 4F)
12月13日 (月)
会報委員会
(事務局)
12月20日 (月)
エランドール賞委員会
(事務局)
 ○会議の予定
1月12日 (水)
セミナー委員会
(事務局)
1月13日 (木)
第七回定例理事会
(東映本社 8F)
1月17日 (月)
会報委員会
(事務局)
1月19日 (水)
エランドール賞委員会
(事務局)