"若い者には負けない"
     協会では、 多くの方が70歳以上の功労会員になっています。
     先輩の皆様方の知恵と力を活かす道を探るべく、 三名の方々に御寄稿いただきました。
功労会員のパワーで社会貢献しよう
プロデューサー協会 前会長  遠藤利男

  先日、 筑紫哲也のニュース23では、 団塊の世代が定年を迎えて 「大定年時代」 と名づける特集番組を放送していました。 いよいよ日本は本格的な高年齢化社会に突入するのです。
 わがプロデューサー協会は一足早く多数の70歳以上の功労会員がまもなく25パーセントを超える時代に入っています。
 60歳代はまだまだ第二の人生といいながら、 わが会員は日本の映像界とその周囲で働き後見する人々は沢山いらっしゃるでしょう。 しかし70歳をこえると、 一部の人を除き、 貴重な経験や判断力・活動力を持ちながら、 映像界から遠ざかってしまう方も多いと思います。 そこで、 プロデューサー協会の社会貢献活動の一環として、 功労会員のパワーを組織し、 現役世代とは違った活動ができないかと考えた次第です。
 例えば、 若いプロデューサーを育てる 「塾」 を作る。 クリエーターではありません。 クリエーターを組織し、 資金を集め、 ヴェンチャープロダクションを起こし、 上映・放送・インターネットで利益をあげる術を教えるのです。 このようなプロデューサーの出現こそがプロデューサーの地位を高めるのではないでしょうか。
 その二は、 例えば 「高齢化社会の生き様」 をテーマにした映画・映像祭を開く。
その三は、 映画・映像の楽しさ・リテラシーを語って歩くボランティアキャラバンを全国の自治体の市民講座や学校・大学の教室に派遣する、 などなどです。
 思いつきで実現には難関があると思いますが、 どなたか賛同なさいませんか。
人生の管
プロデューサー 近藤 晋
 どんなにクダ管だらけになっても延命装置は外したくない…60代の夫婦が90才の父の介護に当たるドラマの打合せの席でそう云った。 私は死が怖い。 少年の頃、 空襲の跡片付けをさせられて死体には馴れっこになっていた筈なのに、 我が身となると潔く死を迎えるという澄んだ心境にはなれないでいる。 あの体験は、 通奏低音となって折につけ私を衝き動かし、 ドラマの即興曲を作らせて来たように思う。
 功労会員にして頂いた今も追われるように促と仕事し続けているのも、 綺麗事で云えばそのエネルギーが枯れないからであり、 実態は恐怖が裏返しの生への執着となって燻っているからであろう。 だから私には後輩の範となることも教えることも出来ない。 ならばパワーとして何を心掛ければよいのか…。
 一つ思い当たることがある。 若い人達が映像作品に挑戦する時、 壮老年がやり残しに賭けようとする時、 何が実現の隘路となるのか…云うまでもなく資金である。 テレビ局や映画会社の庇護なり、 奇特な出資者が現れでもしない限りその製作は至難の業。 作りたいけど金はない、 借りて作れば権利がない…所詮自分のものを自分では作れないのが現状である。 折角の志も能力も、 容赦なく無に帰した例を散々観て来た。 国も銀行も映像産業の効用に目覚めてファンドも開業し始めたと云え、 本当に作り手と志を共にして適切の助力をする機関は未だしである。 幸い私はテレビ、 映画、 舞台の製作に携わり、 手蔓・手立・手順・手管・手打ち…一通りの体験を持つ。 この職人芸がプロデューサーの隘路から通路への改善に役立つのではないか…真剣に想うに至った。 目下その設営に参画中で、 夢物語に終らない段階までは来ている。 私の焼死体へのトラウマも、 明るいカデンツァとして結実するかも知れない。 冒頭ドラマの続編打合せに参加出来た時、 管だらけなんて真っ平だ、 としれっと口にするようになれれば幸せである。
僕達が今出来ること
ディレクター 高橋一郎
  僕がTBS (当時はラジオ東京/JOKR−TV) に入ったのは昭和三十四年 (1959) で、 先行テレビ局としてはNHKと日本テレビがあり、 フジが開局した年であった。
 その頃テレビはモノクロ生放送の時代で"電気紙芝居""一億総白痴化の先兵"と言われていた。 一方半世紀を超える歴史を持つ映画は"第七芸術"として確固たる地位を築いており、 日本映画の観客動員数はピークを記録していた。 後発のテレビは未だ海の物とも山の物とも判らぬ存在だったが、 もしかしたら映画とは全く違う新しい世界を生み出すことが出来る分野かも知れぬと思い、 その可能性に惹かれて僕はテレビを選んだ。
 当時のテレビは確かに稚拙ではあったが、 皆が開拓精神に溢れており失敗を恐れず様々な表現手法の開拓に夢中になっていた様に思う。 とにかくやってみようの精神でまたそれが許された時代でもあった。
 間もなくTBSは"ドラマのTBS"と言われ始めたが、 先頭に立ってドラマを牽引していたのが 『私は貝になりたい』 の岡本愛彦、 『マンモスタワー』 の石川甫の両氏であった。 僕達は此の二人の大先輩に絶大な敬意を表しつつ、 同時に乗り越えなければならぬ存在と捉えてもいた。 両氏以外にも目標となる多くの優れた演出家が存在していたことは僕等にとって非常に幸運であった。 今はこういった存在の先達が非常に少ないことがテレビをつまらなくしている一つの要因でもあろう。 だがこれはテレビの分野に限ったことではないかも知れない。
 時代が移り、 テレビも著しく変わった。 昨今テレビの技術的進歩は目覚ましく隔世の感がある。 だが番組の内容がそれに比例して豊かになっているかといえば必ずしもそうではない。 今のテレビはテレビ特有の作劇法を忘れている様に思える。 テレビでなければ出来ない斬新な表現 (手法) を、 僕達はもう一度初心に帰って創り出す必要があるのではないだろうか?
 僕達が今出来ることは後輩諸君の刺激になる様な番組を造り続ける事しかないと思う。
内容も充実! 「プロデューサーズ・セミナー2005」 開催される!
 今回で五回目を迎える 「次世代の映像人の発掘と育成!」 をテーマにした 「プロデューサーズ・セミナー2005」 が去る四月十八日 (月)、 会場も、 新宿/紀伊國屋サザンシアターという最高の場所で、 (株) 紀伊國屋書店/映像情報部の強力なバックアップを得て開催されました。
 内容も、 @人事セミナー 「映像業界が求める人材とは!」 と題し、 パネラーも、 枇椰浩史 (東宝) ・牧野力 (NHK) ・高綱康裕 (TBS) ・堀信之 (フジテレビ) ・遠藤泰 (テレビ東京) ・中山和記 (共同テレビ) の各氏。 そして、 司会は、 テレビ東京の大江麻理子アナウンサーにより熱くトークがかわされました。
 そしてAは 「出会いの広場」 での、 当協会員の多数の参加と、 若者たちとの熱い交流がなされ、 Bはドラマセミナー 「名作ドラマへの挑戦とこれから・・」 と題し 「砂の器」 の伊佐野英樹・ 「白い巨塔」 の高橋萬彦・ 「黒革の手帖」 の中山和記、 各々のプロデューサーが参加し、 NHKの菅康弘プロデューサーの進行で白熱したトークがなされました。
 そしてC映画セミナーでは、 アルゴ・ピクチャーズの岡田裕代表による 「映画製作におけるプロデューサーの役割」 と題して講演があり、 その後、 パネラーとして、 「世界の中心で、 愛をさけぶ」 の市川南・ 「THE JUON/呪怨」 の一瀬隆重・ 「北の零年」 の遠藤茂行・の各氏が登場し、 関口裕子 「キネマ旬報」 編集長の進行で 「大ヒット!映画プロデューサー大集合!」 と題し、 内容の濃いパネルディスカッションが行われました。
 そして、 最後に、 当協会員の厳正な投票により選定された今年の 「ザ・ヒットメーカー2005」 の映画部門は 「世界の中心|」 の春名慶 (博報堂) ・テレビ部門は、 「弟」 の大川武宏 (テレビ朝日) ・そして、 出版部門は、 「負け犬の遠吠え」 の作家・酒井順子・時の人の部門では、 話題の 「冬のソナタ」 の仕掛人・小川純子 (NHK) の各氏が受賞され、 引き続き、 大江麻理子アナウンサーによる進行で興味深いトークが展開されました。
 四月の平日の開催という事もあり、 予想より少ない百二十余名の参加者でしたが、 若者たちだけでなく、 一般の方々や、 又、 協会員にとっても大変、 有意義なセミナーでした。
 今後、 益々内容と開催時期の検討をしながら、 当協会の年間の大きなイベントとして、 実施してゆきたいと思います。
 参加していただきました皆様に心よりお礼申し上げます。
(プロデューサーズ・セミナー委員会)
私の新人時代
 アルゴ・ピクチャーズ 代表取締役 岡田 裕
 昭和三十七年、 日活撮影所に助監督として入社しました。 最初についたのは石原裕次郎主演の 「青年の椅子」 (西河克己監督) という映画で、 カチンコが上手く叩けず苦労しました。 裕次郎さんや浅丘ルリ子さんの目の前にカチンコを出すのですから緊張します。 監督のヨーイ・スタートの声でカメラのスイッチが入り、 同録のテープが廻り始めてブザーが鳴り、 それからカチンコを打ってカメラ前から引くのですが、 あわてているので監督のヨーイ・スタートの声と同時にカチンコを打ってしまう。 照明の恐いおじさんから、 夜家に帰ったら誰かに玄関のベルを押してもらって練習しろと怒鳴られました。 が、 夜家に帰れる日は稀でした。 夜間ロケで跡かたづけを終えると深夜の二時、 三時。 撮影所の寮に泊まって八時に起きて九時、 セット開始。 そんな日が続きました。 三年間カチンコを叩きましたが映画の基礎の勉強になりました。
シーン・カット割り、 編集、 レンズのサイズ、 俳優の芝居に入るタイミング等々。 兵隊の位みたいに助監督の順位もサード、 セカンド、 チーフと上ります。 チーフ助監督としての最初の仕事は、 これも裕次郎さんの 「栄光への五○○○キロ」 (蔵原惟繕監督) という作品。 パリ、 ニース、 モナコ、 そしてアフリカのケニアへと二ヶ月位のロケをしました。 何せ一ドルが三六○円、 羽田から飛び立ってモスクワで給油してパリに着くという時代です。 外貨が高いのでスタッフの人数は極端に絞られ助監督は二人、 それも衣裳係とスクリプターも兼任です。 製作部は小林正彦氏 (現石原プロ専務) 唯一人。 初の海外で、 あらゆる雑事をこなさねばならずしんどい仕事でしたが、 映画創りの仕事というのは参加している全てのスタッフ、 キャストが手と手を継ぎ合せて出来るものだと実感しました。 さて、 そろそろ監督昇進の声も掛かろうかという昭和四十六年、 日活はロマンポルノ態勢となり、 本社の企画室長の黒澤満氏からプロデューサーをやらないかと声を掛けて貰いました。 プロデューサーとしての新人時代はここから始まるのですが、 その事はまた、 いずれ次の機会に。

●退会    磯野  理 (東宝)

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 ○会議の記録
5月16日 (月)
会報委員会
(事務局)
5月30日 (月) 第11回定例理事会
(NHK青山莊)
    〃
第29回通常総会
(   〃   )
 ○会議の予定
6月13日 (月)
会報委員会
(事務局)
6月22日 (水)
第1回定例理事会
(NHKエンタープライズ21)
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *  編  集  後  記  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
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 この会報が皆様のお手元に届く頃には、 第29回総会も終わり、 新しい執行部がスタートします。 協会では、 ベテランの会員の方々と比較的若い会員の方々との断層があるようにも見受けられます。 年令の差を超えて、 会員相互が交流し、 刺激し合えるようになれば、 と思います。 会報はその一翼を担っていきたいと考えます。 ご協力をお願いします。
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(香)
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