
先日 『テレビマンユニオン史1970〜2005』 を送って頂いた。 分厚いページを繰りながら、 あの年の正月明けの朝を思い出した。 新聞はTBSからテレビマンユニオン、 テレパックなど制作プロダクションの独立を報じていた。 今野勉 「7人の刑事」 を見てテレビドラマを作りたいと思い、 4月から日本教育テレビ (NET・現テレビ朝日) に入社が決まっていた私は、 勇躍飛び込もうとしていたテレビの世界が早くもガラガラと形を変えようとしている事を知り愕然とした。
半年間の音楽番組を経て念願のドラマへ配属となるや否や、 呼び込みに車両送りにと廊下を走り、 スタジオでは女優さんの履物を揃えて廻った。 激動の七○年代であり、 市ヶ谷台の三島の割腹から浅間山荘での新左翼の自家中毒までが確かにあった数年間だったのに、 P化粧品一社提供の女優ドラマのADとしてお茶に焼き物、 機織りに組み紐、 踊りに能舞いと、 精進する女主人公と同じように追いたてられ、 あの薄暗いスタジオには変革の時代の風は吹いて来なかった。
そんな頃だから長期の海外ロケの仕事は魅力だった。 優秀な助監督でも海外ロケに出ると、 「ウーンここは日本のま裏だから、 エー、 太陽は西から上がるんだな!」 とトチ狂ってしまうもんだと二谷英明さんにおどかされて、 今は亡き植村直己氏がサポートしてくれるアラスカロケに出発した。 クレパスにザイル一本で宙吊りになった加山雄三さん、 カメラマンは勿論その下に宙吊りにされており、 「狂ってる、 狂ってる、 目に見えないけど氷河は動いているんですよ!」 植村さんは走り回って現地ガイドたちを指揮してくれた。 雨が降り出し気温が下がると三田佳子さんたちと毛布にくるまって体をこすり合わせ、 迎えのヘリが到着するのを待った。 そんな長期ロケを終えフラストレーションのたまった私はディレクターやスタッフを空港から送り出すとひとり残って西海岸への休暇を取ってしまった。 なんとまァひどいチーフAD!思い出すと冷や汗が出る。 ご免なさいTディレクター。
連続ホームドラマの終わる直前に初めて一本演出を担当し、 「デビューだったのにいいホンが書けなくて御免なさいネ」 と向田邦子さんにねぎらって頂くまで、 まだ一〜二年かかった筈だ。