333 2005年 月号

新体制で事業委員会スタート!!

 杉田会長の意向で、 委員会メンバーの若返りも図られ、 今回ご紹介する方々は、 理事・副理事を中心に担当を決めましたが、 委員会運営には多くの方々のご協力が不可欠です。 会員の皆様には積極的な参加を求め、 〈委員会活動〉をより有意義なものにして頂きたいと切に望みます。 協会に新風を吹き込みプロデューサー集団の力強さをアピールしようではありませんか。 皆様方のご協力を宜しくお願い申し上げます。

(事務局)


委員会メンバー紹介
◎総務委員会 (3名)
委 員 長
松尾  武 (NHK)
副委員長
香西 靖仁 (日活)
委  員
熊谷  健 (D)
◎組織委員会 (8名)
委 員 長
西村与志木 (NHK)
副委員長
坂上  順 (東映)
黒井 和男 (角川)
委  員
香西 靖仁 (日活)
小山  啓 (NTV)
市川 哲夫 (TBS)
大多  亮 (CX)
小林 俊一 (E)
◎国際交流委員会 (4名)
委 員 長
黒井 和男 (角川)
委  員
森岡 道夫 (功労)
中川 好久 (日活)
前澤 哲爾 (F)
◎著作権委員会 (10名)
委 員 長
谷口 公浩 (日活)
副委員長
熊谷  健 (D)
委  員
針生  宏 (東宝)
高澤 吉紀 (東映)
佐藤 正大 (大映)
大加 章雅 (NHK)
前田伸一郎 (NTV)
赤司 学文 (A)
和田 康作 (B)
飯田 尚一 (F)
◎会報委員会 (11名)
委 員 長
香月 純一 (東映)
副委員長
里中 哲夫 (A)
委  員
堀口  慎 (東宝)
中嶋  等 (松竹)
青木 信也 (NHK)
家喜 正男 (NHK)
大野 哲哉 (NTV)
丹羽多聞アンドリウ (TBS)
土屋  健 (CX)
高橋浩太郎 (EX)
山鹿 達也 (TX)
◎親睦委員会 (7名)
委 員 長
高橋 信仁 (松竹)
副委員長
原田庸之助 (功労)
委  員
酒井 孝一 (功労)
栄田 陸子 (NTV)
石野 憲助 (A)
榎本喜久枝 (C)
玉川  静 (E)
◎催物委員会 (2名)
委 員 長
坂上  順 (東映)
副委員長
中曽根千治 (東映)
 ○エランドール賞委員会 (26名)
委 員 長
市川 哲夫 (TBS)
副委員長
黒井 和男 (角川)
小林 俊一 (E)
委  員
田中 文雄 (東宝)
福島 聡司 (東宝)
小嶋 雄嗣 (東映)
中嶋  等 (松竹)
香西 靖仁 (日活)
谷口 公浩 (日活)
浅野加寿子 (NHK)
若泉 久朗 (NHK)
吉川 幸司 (NHK)
前田伸一郎 (NTV)
大野 哲哉 (NTV)
吉田  健 (TBS)
石原  隆 (CX)
土屋  健 (CX)
桑田  潔 (EX)
松本 基弘 (EX)
佐々木 彰 (TX)
橋本かおり (TX)
岡部 紳二 (TX)
小野 伸一 (C)
工藤 英博 (E)
中山 和記 (F)
井上 隆志 (賛助)
 ○セミナー・ヒットメーカー委員会 (22名)
委 員 長
大多  亮 (CX)
副委員長
黒井 和男 (角川)
西村与志木 (NHK)
森江  宏 (F)
委  員
田中 文雄 (東宝)
中曽根千治 (東映)
中嶋  等 (松竹)
香西 靖仁 (日活)
菅  康弘 (NHK)
木田 幸紀 (NHK)
鈴木  圭 (NHK)
小山  啓 (NTV)
山崎 恆成 (TBS)
土屋  健 (CX)
川島 保男 (EX)
黒田 徹也 (EX)
小川  治 (TX)
里中 哲夫 (A)
藤倉  博 (B)
小野 伸一 (C)
小林 俊一 (E)
中尾 幸男 (F)
●・・・   委員長からのひとこと   ・・・●
著作権委員会  委員長 谷口公浩 (日活)

 著作権法で 「制作」 として著作者と規定されているにもかかわらず、 監督をはじめとする他のメインスタッフ団体に比べて、 当協会はこれまであまり権利獲得の運動をしてこなかった印象があります。 多くの会員が映画会社やテレビ局に所属して、 権利者でありながら利用者側の立場にもあるため、 何となく矛先が鈍りがちになるのも分からないではないですが、 それはそれとして会員個々の利益を守るための運動はすべきではないでしょうか?とはいうものの、 では、 どうすればよいのかと悩みつつ拝命いたしました。 よろしくお願いいたします。

親睦委員会  委員長 高橋信仁 (松竹)
  「親睦」 とは広辞苑によると親しみあうこと。 なかよくすること。 会員及び業界の方々との親睦をはかり、 親睦委員会が中心となって開催しておりますプロデューサー協会のゴルフコンペは、 皆様の御尽力により桜咲く春の我孫子ゴルフ倶楽部と秋の相模カンツリー倶楽部が近年は恒例化し、 十月七日 (金) の相模カンツリー倶楽部で三十九回を迎えます。 今回、 前委員長の榎本女史から 『出来るだけサポートしますので後を宜しく』 でお受けしました。 今まで私は、 何故かコンペ当日は仕事 (生来の要領の悪さ?) ・脚部不安の問題で準備・手伝いのみ、 未だ一日居たためしが無く、 勿論プレーにも参加出来ないのが常でした。 これを契機に私もプレー参加の努力をしたいと思います。 と同時に、 会員の皆様、 とりわけ若い方々の奮っての御参加を切に願う次第です。
エランドール委員会  委員長 市川哲夫 (TBS)
 エランドール賞の歴史は、 プロデューサー協会の歴史そのものであります。 1956年の第一回以来、 来年で半世紀の伝統を誇ります。 中でも新人賞は、 正にスター俳優の登竜門となっており、 受賞者の顔触れはこの賞の権威を自ら証明するかたちとなっています。
 さらに近年は、 作品賞を始め、 プロデューサー賞、 特別賞、 そして昨年度からはプロデューサー奨励賞が新設されました。
 会員500人が、 賞選出の投票権 (アンケート形式) を持つ、 きわめて公正かつ開明的な賞です。 年々マスメディアの関心も高まり、 授賞パーティーは盛況を極めてるのは、 会員各位がご承知の通りです。 次回も又、 逸材を見逃してはなるものかと、 委員各々が、 ドラマや映画に目を凝らす日々が続きます。
セミナー・ヒットメーカー委員会  委員長 大多 亮 (CX)
 テレビ局に就職して年がたつ。
 ちょうど入社した頃にフジテレビは映画に力を入れ始め、 今や日本を代表する映画制作会社の一つになった。
 社内では、 長くドラマプロデューサーとして仕事をしてきたが、 常に映画への憧れは消えず、 「ヒーローインタビュー」 という映画を制作し、 自らのプロデュース作品がスクリーンにかかった時は、 何ともいえぬ感慨があったのを憶えている。
 それから年が経ち、 今やテレビのクリエーターが映画に関わる事が当たり前の時代になった。 そういった意味でもこの日本映画テレビプロデューサー協会が益々の力を持ち、 日本のエンタテイメントをリードするよう微力ながら尽力したいと思う。
 セミナー・ヒットメーカー委員会のイベントも、 更なる活況を呈するよう頑張りますので、 よろしくお願い致します。
鮮烈!  「テレビ局誕生秘話」 物語
VIPタイムズ社 井草繁太朗
  昭和三○年頃には、 テレビ放送はNHKをはじめ、 日本テレビとTBSの民放二社が業務を開始していたのですが、 私は知らなかった。
 勿論、 その映像も受信機も触れることもなかった。 もっぱら見る娯楽は映画専門で時代物が多かった。
 映画界から見ればテレビは敵の様なものなのに、 或る日、 東映のテレビ創立準備室の野村博大先輩より、 仕事を休んでも来いとの連絡が入ったのです。
 東映本社は、 その頃は、 京橋一丁目にありビルの屋上の仮社屋を訪ねたのです。
 てっきり、 映画会社の興業部は本社ビルの中にあると思っていたのに少し意外でした。
 そこには、 興業部と教育映画部があり、 奥の大きなデスクに、 テレビ企画本部長の二所宮文雄氏と、 文化放送創世期時代の大物・五泉忍氏の大学の大先輩達が在席していた。
  「これからはテレビの時代が来る、 お前もやれ」 と一言、 なんとなく何時の間にか私はその仲間のペイペイになっておりました。 世間では余りテレビという放送を知らぬ人が大半であった時代であり、 テレビ界では、 8チャンネルが追加されるというので、 申請社多数で、 政治的な条件付きで一局増になり、 10チャンネル 「日本教育テレビ」 が誕生したのです。
 それには、 時の郵政大臣・田中角栄氏が、 或る人の命で動いたと耳にした。
 私が、 テレビ準備室に呼ばれた時は、 既に裏の協議で決定していたものと思われる。
 通称 「NET」 こと日本教育テレビ本社は、 その年の内に、 銀座西八ノ一○番地、 高速ビル二階の二○五号室になった。
 第一号社員として、 私も出社したのです。
 NETの代表会社は、 出版界は旺文社であり、 新聞界は、 日本経済新聞である。 産経関係の8チャンネルは、 松竹、 東宝、 大映なので、 10チャンネルは、 日活と新東宝と代表格の東映によって 「日本教育テレビ」 と名称もきまったのです。
 私は、 条件が取れれば 「東映テレビ局」 となるのかと思っていたのですが、 それは、 夢の又、 夢でした。
 当時のテレビ放送は、 自社による制作発信である事から、 本社内にスタジオも完備されていなければならず、 用地も広大なものであった。 送信所は、 芝公園内に建設がはじまっている日本電波塔に送信するので、 なるべく近い用地が必要であった。
 幸いにも電波塔に近い港区北日ヶ窪町四五番地、 旧大名の真田上屋敷跡地に決り、 それでも用地不足で、 地方公務員宿舎をはじめ、 隣近所の住宅地まで買収しました。
 おそらく泣く泣く応じた方や、 喜んだ人々もいたはずですが、 いよいよ建設となると、 近所の住民から、 赤旗をかかげての団体苦情などの対応で、 毎日、 疲れ果てゝの日々であり、 本社に出社するのも、 朝夕に一寸顔を出す連日、 大忙しの勤務状態でした。
 本社では、 高野副社長をはじめ、 代表社の出向部長級が組織や営業方針固めで大忙しでした。
 私も建設現場行きと、 新入社員試験、 社員教育などと、 先輩局に当社の新入社員を見習いとして教育陳情するなど、 開局となるまでは、 本当に苦労しました。 おまけに、 お世話になった局から、 引き抜きと言う嫌な言葉ですが、 そんな一役を買う仕事もやったのです。
 開局も、 教育放送と言う文字のため、 フジテレビより早く、 昭和三十四年二月一日に無事に放送が出来ました。
 しかし、 その後発病した母を救うために愛社精神も捨てゝ、 母の治療のために退職金を当て、 退社をよぎなくされたのです。
 NETも、 テレビ朝日と名称も変り、 社屋全体もカラー時代の名のもとに色を塗られ、 当時の社屋は二度と戻ることはなかったのです。
 しかし、 10チャンネル・JOEX−TVの文字は残りました。
 消えた社屋は私の脳裏に今もあざやかに活ています。

(2005・8・12)
私の新人時代
 日活 那波直司
 昭和三十年春、 日活に入社した私は二ヶ月間の劇場研修を終えると直ちに撮影所製作部に配属されました。 前年の秋に映画製作を再開したばかりなのに、 月八本全プロを目標に遮二無二量産体制を押し進めていた撮影所へ、 私が希望した職場なので仕方ないのですが、 ぽーんと放り込まれた感じでした。 そのころの監督陣は、 田坂具隆、 久松静児、 マキノ雅弘、 滝沢英輔、 川島雄三監督など、 巨匠、 ベテランが顔をそろえ、 のちに日活の最盛期を監督として支える中平康、 斉藤武市、 鈴木清順、 蔵原惟繕、 舛田利雄監督達は、 まだ助監督でした。
 製作部には壁いっぱいの大きな黒板があり、 準備中をいれて常時十組以上のスケジュールでいっぱいになっていて、 その各組を統括し予算やスケジュールを調整する製作事務の仕事をすることになり、 プロデューサー、 製作担当者、 助監督、 美術デザイナーなどに、 よく言えば教えられ、 悪く言えば小突かれながら右往左往する日が続きました。 朝九時から夜八時、 九時はしょっちゅうで、 下手すると夜間ロケの応援にかり出され、 徹夜になることも珍しくなく、 多忙さが故に短期間で仕事を覚え、 一年も経つと周りのスタッフが若かったこともあり、 いっぱしのカツドウヤのように振る舞い、 それなりに責任を持たされ始めていました。 私はステージのスケジュールを任され、 十三のステージを各組のセットスケジュールに合わせてどう回転させるか、 建て込み日数、 装飾の時間、 解体時間などを交渉し、 撮影のセット拘束をどうするかなど、 そんな事の連続を美術課や各組のスケジュール担当者とけんか腰でやり合う毎日でした。
 昭和三十一年、 石原裕次郎の出現から昭和三十年代の最盛期に入ります。 一時は年間百本を超える、 今まで想像もし難い量産体制が敷かれ、 その熱気のなかでただひたすら走り続けました。
 街ではジルバが流行りはじめ、 キャンパスでは新しい運動が動き出していました。

◎正会員入会 青木信也 (NHK)
◎退会 平山武之 (NHK)    西川 章 (TBS)
◎訃報 功労グループの勝田康三氏は去る6月29日逝去されました。
心からご冥福をお祈り致します。
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●第39回ゴルフ会・第一報
  秋のゴルフコンペが決まりました。

        日 時  10月7日 (金)
        場 所  相模カンツリー倶楽部
初参加の方は事務局までご連絡下さい。
(親睦委員会
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 ○会議の記録
7月12日 (月)
第2回定例理事会
(東映本社)
8月8日 (月) 会報委員会
(事務局)
 ○会議の予定
9月12日 (月) 会報委員会
(事務局)
9月21日 (水) 第2回定例理事会
(NHKエンタープライズ)
9月29日 (木)
親睦委員会
(事務局)
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