沿革

§創立期の頃 (1954年~)

 日本映画テレビプロデューサー協会の前身である「日本映画製作者協会」が発足したのが昭和29年(1954)、創立の綱領は「相互扶助の精神に基づき会員の職能の確立と、経済的地位の向上をはかり、ひいては日本の映画文化の発展に寄与する」というものでありました。
 創立の理事会は初代理事長がマキノ光雄、理事には独立プロの雄・伊藤武郎、戦後東宝映画の礎を築いた田中友幸、藤本真澄など当時の日本映画界を代表する気鋭のプロデューサー達が含まれ、会員は約100名、スタート早々から合作映画に関するシンポジウム、海外映画関係資料の配布、会員のための試写会、研究会など活発な活動が開始されました。

§新人俳優、優秀プロデューサーの顕彰制度始まる (1956年~)

 昭和31年(1956)には新人俳優顕彰制度が発足し、第一回目には石原裕次郎、高倉健、川口浩などが表彰され、1968年から、この顕彰制度はエランドール新人賞となって今日に受け継がれています。やがて賞の内容もその年活躍した優秀プロデューサーなどにも範囲が拡大され、今では業界の中でも権威ある賞の一つになっています。

§テレビプロデューサー多数の加入 (1970年~)

 その後、協会の活動は順調に積み重ねられ、昭和45年(1970)にはテレビドラマプロデューサーの多数加入を見て協会名も「日本映画テレビ製作者協会」と改称されました。文字通り映画とテレビのプロデューサーが一堂に会し切磋琢磨するというユニークな協会に発展し、会員数も飛躍的な伸びを示しました。

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§社団法人として新出発 (1976年~)

 昭和51年(1976)、所轄官庁より認可を受けて社団法人として新発足、それに伴って「社団法人 日本映画テレビプロデューサー協会」と現在名に改称され、初代会長には田中友幸、副会長に川口幹夫、佐藤正之が就任しました。 この年度より事業活動推進のために6委員会(ビデオ・文化史・催物・プログラム・新人賞・会報)が設けられ、それぞれ責任分担制による積極的な活動が開始されました。顕著な実績の一例として、ビデオでは「映像による日本風俗文化史」ビデオシリーズが6巻、出版では「目で見る日本風俗誌」が10年間にわたり10冊、その他「プログラム映画史前後編」なども制作刊行され、いずれも貴重な時代考証文献として高い評価を受けました。
 昭和54年(1979)には岩波ホールと共同編集で「映画で見る日本文学史」を発行、関連する特別研究会、その他多岐にわたるテーマで数々の公開討論会、シンポジウムが精力的に開催されました。

§テレビ部門所属協会員の構成比高まる (1983年~)

 昭和58年(1983)にNHKの川口幹夫が会長に就任。この頃になると協会員所属分布も映画からテレビへと移行しプロデューサーの所属範囲も初期の時代に比べてはるかに多岐にわたるようになりました。

§「ザ・ヒットメーカー」など数々の催物始まる (1986年~)

 昭和61年(1986)には催物委員会初の試みとして「ザ・ヒットメーカー'86」が開催されました。これは、前年度各ジャンルにおいてヒットを飛ばしたヒットメーカーを協会員の投票によってノミネートし5~7人を選んで顕彰すると同時にパネルディスカッションを行うというものです。初回は伊丹十三、ジェームス三木、林真理子、野田秀樹、川崎徹、司会に筑紫哲哉などの組み合わせが新鮮であったことから好評を博し、以後同委員会の目玉催物として毎年継続開催されています。
 このほか研究会、シンポジウムは時のテーマにより数多く企画実施されましたが、この頃から協会は「東京国際映画祭」や「国際映像フェスティバル」に積極的に参加、第3回「東京国際映画祭」に於いてはヤングシネマ部門に深くかかわりました。他に「来日ゲストを囲む会」「記念セミナー」「国際交流パーティ」なども開催され、平成に入ってからは国際交流委員会によって「国際共同制作研究」をはじめ数多くの国際シンポジウムが独自に企画実行されています。

§協会員500名越す (1990年~)

 創立時100名足らずだった協会員もその後順調に伸び続け、昭和から平成にかけ500名、賛助会員を加えると550から600名をうかがう勢いとなりました。一方高年齢化も進み、協会にとってはバブル経済以後ようやく巨大な姿を現しはじめたデジタル化時代に対処するため「組織の若返り」に積極的に取り組もうとしております。
 協会は1998年から活性化委員会を組織し、若手現役プロデューサーに積極的に参加を促し、副理事制度など若手理事の育成を心掛けています。

§「ネオ・プロデューサーズ・フェスタ」の開催 (2000年~)

 2000年3月29日、協会の初めての試みとして「ネオ・プロデューサーズ・フェスタ」を行いました。この事業は活性化委員会の討論の中から実行プランとして浮かび上がったもので、「新時代を迎えるにあたり、中堅プロデューサーは新時代の映像文化を担うであろう映像人=ネオ・プロデューサーを発掘し、育み、導くために何をすべきか?」をテーマとするイベントです。当協会のメンバーである現場で活躍するプロデューサーが中心となり実践的なセミナー、ワークショップ、出会いの広場(ダイレクトコミュニケーション)等を通じて映像志望の若者と直接触れ合う機会を持つ点で刺激的で画期的なものとなりました。この試みは幾つかの問題点はあったもののマスコミからも有意義なイベントとして大きく取り上げられました。なお、2002年より、「ネオ・プロデューサーズ・フェスタ」は「プロデューサーズ・フェスタ」に変更されました。

§「アクターズ・セミナー」 (2004年~)

 「プロデューサーズ・フェスタ」からプロデューサーセミナーを切り離し、若手の役者とプロデューサーの出会いのチャンスであるワークショップを引き継ぐ形で単独で「アクターズセミナー」として開催する事になりました。若い役者から選ばれたオーディション優秀者には、アクターズ・セミナー賞が授与され、毎回熱いオーディションが期待されます。

§「プロデューサーズ・カフェ」始まる (2007年~)

 若い協会員やその予備軍ともいえるこれから協会に入って欲しい若いプロデューサーたちに、ベテランプロデューサーが、プロデューサーとしてのノウハウを伝えながら気楽に話をしてもらう場として始まりました。

§「国際ドラマフェスティバル」への参加 (2007年~)

 日本のテレビドラマの国際競争力を高める環境を作るとともに、 将来的にはアジアを代表するフェスティバルに成長させることを目標とする「国際ドラマフェスティバル」へ第1回目から参加。世界中のコンテンツやコンテンツ関係者が一度に日本の多くのコンテンツに触れる機会を提供し、アジアを中心とした新たな交流の場として国際共同製作や国際ビジネス交流に結びつける等の貢献をしています。

§「一般社団法人 日本映画テレビプロデューサー協会」へ移行 (2011年4月~)