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あまり大きな声では言いたくないが、NHKに入局して二十年。同期のディレクター達の多くは『デスク』を経て、『CP』(チーフプロデューサー)としてプロデューサー業務に関わっている。自ら直接、取材、編集、演出など制作に携われた時代を懐かしみながら、後輩ディレクターを叱咤激励する日々なのだ。私が仕事で出会うのは、ドキュメンタリー番組のプロデューサーが多いのだが、彼らの師匠であったCPの芸風や資質が今日の彼らの制作姿勢に大きく影響している。
ドキュメンタリー番組では、ナレーションのコメントが仕上げの重要な要素である。担当ディレクターに繊細な日本語能力と感覚が備わっていれば、一稿後の手直しは少なくて済むが、巷の日本語が乱れている今日、若手にそれを求めるのはむずかしい。そんな時、語彙が豊富で表現力に富み、かつ、音声化した時の口語文としての美学を持っているCPがコメント直しをしてくれると、完成度の高いナレーション原稿ができる。視聴者は初見、ならぬ初聴なので、コメントが難解だったり、説明不足だったりすると、そこで引っかかってしまし、消化不良のまま、番組を見続けることになる。コメントをBGM、と軽視せず、練りに練ったコメントで勝負する制作陣であって欲しい。若手ディレクター達に、その日本語感覚、とり組む姿勢を遺伝させて欲しい。
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日本語を精査する能力は、ドキュメンタリーのプロジーサーだけでなく、ドラマのディレクターやプロデューサーにも求められるのだ。リアリティーあるドラマを見せようとすると、役者のセリフは現代の日常語でないと嘘っぽく見える。となると、私達アナウンサーが正しい日本語に固執しても、『見られる』『食べられる』は『見れる』『食べれる』の方が今や、自然に聞こえてしまうのかもしれない。無理な注文だろうが、脚本作りの時、プロデューサーは『正しい日本語を自然に話すチョー今風のキャラ』をひとりは作り出して、ドラマの中で活躍するよう、主張して欲しい。
日本語を生業とする私からの切なる願いである。 |
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