その昔 私が松竹に入社した頃は、 「プロデューサー」 などという名前はなく、
「製作」 と呼ばれていた。 私たちは 「映画製作本部」 という部署に所属していた。
私が 「製作助手」 として、 初めて仕事についたのは、 小津先生の 「晩春」 である。
(今にして思えばまことに好運であった。)
当時、 先生は茅ヶ崎海岸近くの 「茅ヶ崎館」 という旅館にこもって仕事をしていた。
私がはじめて先生にお会いしたのも 「茅ヶ崎館」 であった。 資料か何かを届けに行った時である。
十畳あまりの和室に、 先生は床の間を背にしてどっかと坐っていた。 その右横、
窓側には脚本の野田高格さんが坐っている。 その頃先生は四十五、 六才、 野田さんは十才ぐらい年上だったと思うが、
二人ともゆるぎない風格があった。
私はぎんぎんに緊張して、
「製作本部の佐々木と申します」
と挨拶をした。 すると先生は、
「製作本部?……製作本部というのは、 ここだよ」
と、 冗談めいた口調で、 少しからかうような笑顔を私に向けた。
私は衝撃をうけた。 まさしく製作の本部は 「茅ヶ崎館」 にあるのだ。 その時の状景と、
先生のその言葉は、 いつまでも私の記憶から消えることはなかった。
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時が移り、 時が流れて、 テレビ時代に入り、 「プロデューサー」 という呼び名も定着し、 その仕事の領域も明確になってきた。 少くとも製作の中枢の一角を占めるまで力をつけてきたのではないだろうか。 若し、 「プロデューサー」 という仕事に誇りをもつならば、 「製作本部はここだよ」 などと大それたことは言えないにしても、 それなりの見識と意欲を身につけなければならないと思う。 |
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