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好調 「時代劇」 に思う

映 画
松竹 ゼネラルプロデューサー 中川 滋弘
 時代劇が復調している。 整理された価値観や秩序は安心をもたらす。 物語性の豊かさは興奮を与える。 時代の混迷がそれらを求めてもいる。
 ソ連崩壊後、 アメリカ映画は強敵を求めて宇宙へ、 海底へ、 未来へ、 神話世界へと飛びまわっているが、 日本の明治維新は風俗と社会構造を一変させた。 百年前はもはや異界なのだ。 日本の時代劇は特殊だともいえる。 それがいま復活した背景には何があるのか?
 ニーズとウォンツの裂け目が拡がった?  しかしこれはいまに始まったことではない。 文化産業という言葉が生まれる前から送り手はウォンツに火をつけてニーズを作り出してきた。 問題があるとすれば、 洋画のニーズに目を奪われて邦画のウォンツがおろそかになっていたのかもしれない。
 大衆性と娯楽性が乖離した?  娯楽性は格段に進歩している。 テクニックもヴァリエーションも多彩だ。 なのに共感され難い。 何故か?大衆がいなくなったのか?
 価値観の多様化が叫ばれて久しい。 だが現実の価値観は行方不明になっている。 作品価値で1対2でも商品価値では1対10。 雪崩現象のメガヒットが出現する。 明らかに大衆はいるのだが、 平準化とは裏腹に一極集中が起きている。
 通常作品はというと世代、 性別で輪切りにされている。 ターゲット戦略に自縄自縛になっている。
  "時代劇はシニア映画"では困るのだ。
 冷戦が終わってから時代劇が復活した。 ここに因果関係があるとも思えないが、 グローバリゼーションと裏腹の一極主義、 ましてやパクス、 アメリカーナは危うげだ。 指呼の間では他民族を抱えた社会主義市場経済大国が膨張しつつある。 東に津波、 西に噴火の予兆にはさまれて日本は大変なのだ。
 ますます現代は捉え難い。 時代劇であろうとなかろうと、 作り手も送り手も受け手も同時代人であることに変わりはない。 復古調はいただけない。 逃避や退嬰は論外だ。 ルネッサンスとはいわないまでも、 同時代性の表現と新しい価値の創造に未来はかかる。 時代劇ならなおのこと、 物語の舞台と現在との間に流れる時間の豊かさを楽しむゆとりがほしい。
 大衆映画こそ常に前衛であれかし、 と思う、 からだ。

キネマ旬報編集長 関口 裕子
 自分自身の時代劇小説ブームの発端を思い返すと、 始まりはさして遠くない。 きっかけは、 熊井啓監督の 「海は見ていた」 の製作発表で配られた山本周五郎の原作2冊。 それまでも歴史小説は好きだったが、 渇望し、 読み干したのは初めて。 そして、 それは周五郎作品読破に始まり、 "時代もの"とつく小説を見かけると手に取らずにいられない状態へとなり…。 もしこれを見越して、 新潮社さんが記者会見で配布されたのだとしたら、 まんまとその術中にはまったことになる。
 ここ2〜3年、 多くの時代劇映画が製作されているが、 企画が立ち上がった時期はまちまち、 公開がこの時期に集中したのは偶然、 だと思っている。 だから時代劇ラッシュではあっても、 一概にムーブメントとは言えない。 この日本映画界の状況は、 イーストウッドが 「許されざる者」 を作ったのを機に西部劇復古が叫ばれた頃のハリウッドに似ているが、 新生・西部劇が評価の割に観客の食いつきが悪かったことで、 すぐに撤退したのに比べ、 日本の場合は、 かなりの映画人が 「一度は時代劇に挑戦したい」 と企画を潜在させており、 まだまだラッシュは去りそうにない。
 なぜ《時代劇》に駆り立てられるのか。 それはまず、 原作の時代小説や漫画に描かれる、 日本人として捨て難い情緒、 情感の魅力だろう。 現代劇では嘘臭くなってしまうことも、 時代劇としてなら自然に描くことができる。 そして、 アクション。 現代のアクション映画には《リアリティ》という制約があるが、 舞台を未来、 過去に移せば、 その枷は外れ、 CGIを駆使したアクション表現も思いのまま。 これもまた時代劇を作りたいと思う大きな理由なのではないだろうか。
 時代劇と言っても千差万別。 時代も様々、 文芸あり、 アクションあり。 そう。 時代劇というジャンルづけこそあれ、 その作品は現代劇と同じくらい多様性に富む。 結局は、 何を描くかという作り手の企画と姿勢。 時代劇だから狙えないという層はなく、 寧ろだからこそ開拓できる観客もいるはず。 安易な企画に走らず時代劇の可能性を追求して欲しい。

テレビ
テレビ朝日 プロデューサー 田中 芳之
 去年の夏、 制作部長のS氏から突然 「時代劇を担当せよ」 と命じられた私は、 新番組 「子連れ狼」 を成功させるために日夜奮闘していた。
 初めての時代劇とはいっても、 そこに人間ドラマとスリリングな展開を必要とする意味においては、 現代ドラマと変わることはないわけで、 番組のテーマとするポイントをおさえた後は特に戸惑うことは無かった。 というより、 現代ドラマでは気になるであろう設定、 心情が 「時代劇」 という世界においては強引に納得させてしまえる事、 そして悪人を悪人として断罪できるカタルシスが魅力的であった。
 考えてみれば刀をもったストイックな男達が、 信念と意地にかけて殺しあうというストーリーは日本が誇れる映像文化なのかもしれない。 外国人はマシンガンで殺すシーンよりも、 生身の人間が日本刀で斬り合う姿に映像的恐怖をより感じるという話を聞いたことがある。
  「子連れ狼」 は19時台の放送ということで苦戦していた時代劇枠にあって、 クール平均を二ケタに戻すという健闘を見せた。
 しかし、 ここに今のテレビ時代劇が抱える問題がある。
 時代劇は高年齢層の視聴者がほとんどで営業的にメリットがないという議論である。 視聴者に個人視聴率が導入されて以降、 スポンサーは購買意欲の高い層 (主にF1層) に人気の高い番組を支持する傾向にありそれはそれで正論なのだが、 時代劇がそこから外れてしまっているのである。 簡単に言うと、 「視聴率がとれても商売にはならないから、 バラエティに替えたほうが」 という事だ。 ちょっとショックだった。
 私は今、 引き続き4月の新企画時代劇と7月の時代劇を準備中である。 テーマはただ一つ。 どうやって若い層に時代劇を見てもらえるか、 である。 日本が世界に誇れるであろう映像ジャンルをこのまま終わらせるわけにはいかない、 新参者ながらそう思う今日この頃である。

フジテレビジョン 編成部 保原 賢一郎
 先頃行われた日本アカデミー賞授賞式では、 山田洋二監督の 「たそがれ清兵衛」 が作品賞を始めとする12部門制覇という圧倒的強さを見せつけた。 名匠・山田監督の初時代劇作品である 「たそがれ…」 は昨年の国内の映画賞を総ナメ、 話題が話題を呼び興行的にも好成績を記録したという。
 映画界では今年も 「魔界転生」 「あずみ」 「陰陽師」 などなど時代劇作品が続々ラインナップされている。 こうした状況からか最近"時代劇ブーム"という言葉をよく耳にする。
 テレビ界ではどうか。
  「利家とまつ」 そして 「武蔵」 とNHK大河ドラマは引き続き好調。 「水戸黄門」 も里見浩太朗に代わって視聴率を上げ、 フジテレビで現在放送中の 「剣客商売」 もお陰様で好調である。 最近囁かれる連続ドラマの低調ぶりからすれば、 テレビ時代劇は頑張っているものと言えよう。 しかし、 "時代劇ブーム"と呼ぶほどの盛り上がりとは言い難い。
 テレビドラマとしての時代劇を考えた場合、 避けられないコスト増、 さらに視聴者層の高齢者への偏りからくる営業面の厳しさなどの問題があり、 積極的な制作に至らないのが現状である。
 私は、 時代劇は宝の山であると考える。 現代劇では表現し難いスケール感。 よりファンタジックな物語。 殺陣に象徴されるアクションなど、 その可能性・魅力を挙げればきりがない。 その割に制作本数は限られているので、 企画はほぼ手つかずの状態で豊富に埋蔵されているのではないか。
 私は昨年からスーパー時代劇と称して若年層を意識した番組を制作してきた。 結果は決して満足とはいえないが、 手応えは十分感じている。 現在、 大奥ものを制作中だが、 これはまさに現代OL事情と全く変わらないドラマである。 時代劇のご存知ものが新しいドラマとして再生しようとしているのである。
 "宝の山"にはまだまだ余裕があります。 クリエイターの皆様、 是非鉱脈を探しに来て下さい。 そうすればテレビ界にも"時代劇ブーム"が来るのかもしれない。
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