ALL NIPPON PRODUCERS ASSOCIATON
事務局あらかると

元事務局長 森岡 道夫
 日本映画製作者協会が発足したのは、 昭和二十九年 (一九五四年) 十一月のことでした。 私の出身母体東宝では、 「七人の侍」 が世間の注目を浴び、 「ゴジラ」 の咆哮が世界に轟き渡った年でもありました。 入社二年目の私は、 新入社員研修の過程であった経理部門の研修を終え、 撮影所人事課に正式配属されていました。
 その後長く管理部門の仕事に携わったあと念願の企画部門への移籍が適い、 二本の映画の製作を手がけた上で、 昭和四十七年協会に入会させていただくことになりました。 恒例となっている新春パーティに初めて参加した時、 それまではタイトルの上でしか知ることの出来なかった錚々たる先輩プロデューサーにお会いすることが出来、 身の引き締まる思いがしたことを昨日のように想い起しております。
 田中友幸理事長のもと東宝系の理事を務める一方、 事務局の仕事をお手伝いした時期もありました。 その頃からテレビ界との交流が深まり、 社団法人化の運動が進められました。
 昭和五十一年、 呼称も新たに 「社団法人日本映画テレビプロデューサー協会」 として生まれ変わった協会では、 従来の活動に加え、 さらに各種委員会を設置して事業の範囲を広げ、 より積極的な活動を繰り広げることになりました。 私は会報委員会のメンバーの一人でしたが、 月一回の編集会議が楽しみでした。 本来ならば呉越同舟 (?)、 出身母体の異なる七名の委員が和気藷藷と、 まるで旧制中学の同級生気分で楽しく編集の仕事に取り組んでいました。 初代の事務局長は田実泰良氏、 二代目は栄田清一郎氏でしたが、 どちらも若くして鬼籍に入られたのは残念なことです。
 私が事務局長を拝命した直後の昭和六十二年 (一九八七年)、 川口幹夫会長からお話があり、 当時隔年開催されていた東京国際映画祭ヤングシネマ部門の業務を、 わが協会が引き受けることになりました。 第二回から四回まで、 会員有志の方々のお力添えのお蔭で、 作品選定から運営に至る一連の作業を担当して大きな成果を上げることが出来ました。 第四回 (平成元年・一九九一年) 以降は映画祭が毎年開催となり、 映画祭側の事務局体制が確立されたこともあって、 その後私はそちらに専念することとなり、 協会事務局のお仕事を館野昌夫氏にバトンタッチさせていただくことになった次第です。 館野さん、 よろしくお願いします。
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