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私の新人時代

(松竹) 升本 喜年
唯一の知的作業

 昭和二十九年秋である。 日本映画黄金の時代はまだ続いていた。 松竹大船撮影所が公募していたプロデューサー助手の入社試験を受けたのはいいが、 採用者四名に対して1千名あまりの受験者が殺到していた。 俺なんか到底無理だ。 ヤケ酒を飲んでいたら合格通知が来た。 マグレとしか言いようがないが、 入って、 びっくりした。
 伝統的に監督至上主義を貫いて来たこの撮影所では、 小津安二郎、 渋谷実、 木下恵介といった巨匠は勿論のこと、 新人監督に至るまで絶対の権限を持っているが、 プロデューサーの存在は全く薄いのである。 作品のタイトルに 「製作」 とあるプロデューサーが六人いるが、 実質的プロデューサーは時の撮影所長であり、 極論すれば、 プロデューサーとは名ばかり。 所長と監督との間を往復する秘書的存在でしかなかった。
 その助手の助手で新入社員となると、 映画制作に直接関わるような仕事はまるでない。 鰻の寝床のような助手室で電話の取次ぎをするとか、 監督やスターのところへ台本を届けに行かされるとかいうような雑用に追いかけられっ放しの日々であった。
 唯一、 知的作業があるとすれば、 プロデューサーが企画会議に提出するシノップシスを書かされることだった。 何故かペラ三十枚で、 まとめるのに苦労するが、 単行本を渡されて 「急ぐ。 明日まで」 がしばしばだった。
 徹夜でやっと仕上げた原稿を一読しただけで屑箱に投げ捨てたプロデューサーもいた。
  「原作通りでなくていいよ。 君の若い感覚で書いてくれ」 と言われたことがあった。 こっちは生意気の盛りである。 えいっとばかり勝手に書いて出したら、 企画会議で 「原作とまるで違う」 と言われて恥をかいたと大目玉を食った、 そんなこともある。  あれもこれもほろ苦い思い出だが、 青春の日は遠くなった。 あの撮影所も今はもうない。
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