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「ANPAの夜明け」 |
(元事務局長) 吉村 敏 |
三十年程前の春の朝、 電話が鳴った。 この電話一本で私は協会の事業に携わることになった。
「椎野です」 例によって押し殺したような低音。 「ああ、 おはようございます」 「吉村!明日プロデューサー協会の理事会に来い。
協会の理事をやらせる事にしたから」 「いやあ、 僕、 会員だけど全く無関心で協会のこと何も分からないもの」
「いいからいいから、 来ればいいんだ」。 何時もどおり強引な椎野さんだった。 昭和五十一年、
協会は念願だった社団法人化を目指して田中友幸会長 (故人)、 川口幹夫副会長、
佐藤正之副会長 (故人) を中心に錚々たるプロデューサーがその実現に向かって営々と努力を重ねていた。
寝耳に水の私もその末席を汚すことになる。
事務局長の椎野さんは持ち前の行動力と決断力で千軍万馬のプロデューサー連の多様な意見を集約する難しい舵取り役を務め、 法人化実現に情熱を傾注していた。
椎野英之。 東宝プロデューサーとして 「白と黒」 を初め文芸物を中心に数々の秀作を製作した名物プロデューサーであった。
彼は私の良き先輩であると同時に親しい友人でもあった。 週二回は電話が来る。 「椎野です」 何時もの低音。 急に明るく転調。 「今日は何してんだ!車もって撮影所へ来い」 渋々マイカーを運転して砧の撮影所へ行く。 「俺、 椎野さんの運転手じゃないよ」 「まあいいからいいから本社に行こう」。 豪放磊落にして細心。 人懐こくて憎めない人柄である。
そんな付き合いが十年位続いた。
そして昭和五十一年十二月二十三日、 協会の懸案だった社団法人の申請は文部省より正式に認可を受け、 十月二十三日にさかのぼって設立ということになり名称も 「日本映画テレビプロデューサー協会」 と改め新発足することになった。 だが、 東宝映画の常務取締役になっていた椎野英之はこれに先立つ十二月二日、 労組との団交中に倒れ、 帰らぬ人となった。 葬儀に参列した私達戦前、 戦中派の仲間達は 「名誉の戦死」 と呼んで彼を悼んだ。 享年五十二歳、 余りに若い死であった。
翌年一月、 協会はエランドール協会賞を追贈してその功績を讃えた。 その後、 私は通算三期六年、 会報委員長を務め、 奇しくも二十年後の平成七年、 舘野昌夫氏の後塵を拝して事務局長に任命され、 四年間その職に在った。 めぐり合わせとはこういうものなのであろう。 |
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