ALL NIPPON PRODUCERS ASSOCIATON
事 務 局 あ ら か る と
(元事務局長) 板持 隆
 私が協会に入会したのは昭和54年、 協会が映画人中心から広くテレビ界の人材を吸収して大いに飛躍していた時代です。 また、 倒産必至と囁かれていた日活が労組出身の根本社長の辣腕により奇跡的な再生を遂げたのもこの頃で、 製作部出身でありながら心ならずも長年労務畑で働かされていた私にもようやく出番が回って来た年でもありました。 私に与えられたのはロマンポルノの企画製作でしたが、 大物女優の起用による積極策などにより、 製作営業が活性化するという幸運に恵まれ、 昭和56年にはロマンポルノによる創作集団と、 俳優を育成した努力に対してブルーリボン特別賞が贈られるなど、 私としても充実し満足のいく四年間でした。
 昭和60年の秋、 上層部の製作方針について行けなくなったため、 退社してある建設会社に就職することになりましたが、 異業種に移っても協会は辞めるつもりはありませんでした。 この間、 協会の会員証はいつの日かまた映像界に戻るための心の支えとなり、 また、 お守りの役を果たしてくれました。
 三年後に業界復帰し、 平成3年、 岡田裕君に代わり日活グループの代表として理事に就任しました。 早速、 何も分からぬまま、 日活製作部の二年先輩である今戸さんの引きで会報委員会に入りましたが、 それぞれが歴戦の勇であり気の置けない委員の皆さんと楽しくも充実した月一回の会合を繰り返しているうちに何時しか八年が経過してしまいました。 この間、 半ば自分史でもある日活史の長期連載のみならず 「日活映画興亡の八十年」 の出版まで実現させて頂き、 この期間は私にとっては、 計らずも自己の半生の生き様を再確認するための二度と得られない貴重なものとなりました。 今戸さんをはじめ私を支えて頂いた会報委員の皆さんに改めて感謝する次第です。
 平成十一年、 吉村さんに代わって事務局長に就任しました。 組織の高齢化対策と活性化の問題に正面から取り組まれた遠藤会長の強力な指導力により、 中堅協会員の総合力の結晶であるネオ・プロデューサーズ・フェスタが発足しましたが、 ここに新世紀に向けての協会の方向性を暗示する新たな光明を見たような気がしました。
 こんなことを感じながら僅か二年間でしたが何とか任期を終え松原さんにバトンタッチしました。
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