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私の新人時代  塙 淳一  (テレビ朝日)

 昭和38年テレビ朝日入社。 邦画部企画者集団に配属された。 「特別機動捜査隊」 「鉄道公安36号」 など60分の連続テレビ映画をプロデュースする職場。 P志望だった私は、 個性の強い先輩Pの助手を楽しんでいた。 入社三年後、 25歳の時、 斎藤安代部長から一冊の原作を渡された。 「ある勇気の記録。」 "広島でピストル乱射、 2名即死""キャバレーでダイナマイト爆発""白昼の市街戦、 ピストル、 機関銃50丁押収"…38年から40年の二年間、 平和都市の広島で広域暴力集団と地元の暴力団の無法な抗争が続いていた。 死者11名、 負傷者150名。 善良な市民が巻き添えにされた。 この仁義なき戦いに、 地元の中国新聞社の社会部記者たちが立ち向った。 恋人が、 家族が危険な目に会いながら、 挑戦した。 勇気ある取材に、 県警も市民も協力して、 暴力団を叩きつぶしていった。 ドキュメントタッチの原作に興奮し、 感動した。 「君は独身だ、 殺されるかもしれないが、 やってみるか」 と部長。 「やります」 と私。 何の妨害もなく広島ロケは可能か、 こんな大作を若輩の私につとまるのか"えれぇことになった"というのが実感だった。 60分の連続ドラマを52本制作する準備に入った。 当時NHKの 「事件記者」 が人気だった。 そのレギュラーの滝田裕介、 山田吾一、 近藤洋介、 永井智雄さんらが、 この企画を是非やりたいという。 監督は山本薩夫氏。 田宮二郎主演の 「白い巨塔」 の映画界の巨匠。 初めてテレビを手がける。 脚本は 「白昼の無頼漢」 の佐治乾、 「三匹の侍」 の柴英三郎、 「七人の刑事」 の大津皓一、 「テレビ指定席」 の岡本克己氏などが執筆してくれた。 いよいよクランク・イン。 広島に恐怖の一週間のロケ。 "俺たちを漫画にするんか"の野次が飛んだ位で、 何の支障もなかった。 放映に先立ち、 広島で試写会が行なわれた。 涙と感動に迫力満点…山本演出は完璧だった。 70名の暴力団員が見にきた。 "わしの目の黒いうちは、 何の妨害もせん"組長が言ったという。 これといった妨害、 脅迫もなく、 関係者一同ホッと胸を撫でおろした。 以後2年間この作品に没頭した。 苦しいことが多かったが、 思い出に残るプロデューサーの仕事だった。
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