ALL NIPPON PRODUCERS ASSOCIATON
祝 協会創立50周年記念
会報・創刊号の 「リレー随想」 に協会の輝かしい歴史を探る!     
事務局長 熊谷 健

 ここに、 昭和五十二年 (一九七七) 二月号の 「協会報」 の創刊号があります。
 その第六面に 「第一回リレー随想」 として、 当時、 東宝株式会社取締役だった藤本真澄さんが、 二十五年程前の思い出として、 当時、 東映の専務取締役だったマキノ光雄さんを偲んで心暖まるお話をされています。
 文字通り、 日本映画界の偉大なるプロデューサーであり、 数々の素晴らしいお仕事をされたお二人の〈協会の誕生〉にまつわる貴重なエピソードをこゝにご披露したいと思います。

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 「マキノ光雄氏協会」 藤本真澄
 二十五年も前のことなので正確には覚えていないが、 昭和二十八年の暮れ頃、 今は亡きマキノ光雄東映専務 (昭和三十二年十二月九日死去) と飲んでいた時、 突然 「なあ藤本、 これからはプロデューサーがしっかりせないかん時代や。 監督や脚本家、 俳優にも協会があるのに、 製作者の協会がないのはおかしい。 プロデューサーの協会を作ろうや」 と云われた。 そう云っては失礼だが、 余り組織的な事が好きだとは思われないマキノさんの提言に私は一寸呆気にとられた。 この人は何を云いだすのかと思ったが、 これが仲々の本気で、 製作者協会の必要を力説された。 製作者協会の必要は内心私も感じてはいたが、 誰かが云いださないとこういう協会などというものは出来るものではない。 マキノさんが云いださなければ現在も協会は出来ていなかったかもしれない。 そういう意味で、 マキノさんは真の創立者である。
 云い出しっぺだから俺が理事長をやると自ら云われ、 就任され私が補佐した。
 今では恒例の名物になっている新年パーティー (以前は忘年パーティーだったと記憶する) もマキノさんの発案であった。 たしか今はない日活ホテルの広間でやったように思う。
 協会も会員諸氏の努力により今回社団法人になるまでに発展した。 協会が親睦団体から発展して意義ある協会になるのはこれからだ。 私は機会をみて京都へ行き、 マキノさんの墓に報告したいと思っている。
(東宝株式会社取締役)
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 そして昭和五十四年五月二日、 プロデューサー協会の生みの親でもあった藤本真澄さんも東大病院でおなくなりになったのです。 六十八才でした。
 私達はいま 「協会創立50周年」 を迎えましたが、 これもひとえに素晴らしい先輩のプロデューサーの皆さんのお力があったからなのです。 これから、 そんな先達の〈貴重なエピソード〉を感謝の気持ちを込めて、 お知らせ出来たらと思っております。
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