私の新人時代 |
甲斐 浩 (日活) |
田舎の高校から東京の大学を受けに出て来た昭和二六年の春、 その日の試験が終る度に渋谷・日比谷に出て映画を観て歩いた。 ある日試験を終えて東横線渋谷駅で降り、 階段下のプレイガイドを覗くと、 谷・貝谷・横山三バレエ団合同公演のポスターがあった。 当時は戦後間もない第一次バレエブームの真最中、 切符は売り切れで店員は日比谷公会堂 (何とその頃は日比谷公会堂がバレエの桧舞台) へ行けばダフ屋が居るからと親切に教えて呉れた。 プレミア付きの切符で生まれて初めてのバレエを観て感動。 その後、 モイラ・シェアラー主演サドラーズ・ウェルズバレエ (現ロイヤルバレエ) 団の 『赤い靴』 を観て大感動。 折角入った大学生活の大半をバレエの稽古と鑑賞に費やして仕舞った。 当時ブームのミュージカル映画も全部観て歩いた。
昭和二九年製作を再開し、 調布に白亜の大撮影所を建設した日活を受けたのもミュージカルをやりたかった為。 怪物と言われた堀久作社長の面接でもバレエを論じて社長以下重役連が笑い転げる有様。 無事入社したが見習の二ヶ月は上野日活館勤務。 見習が終り実力者の江守清樹郎常務の面接で、 モノを売る仕事だけは御勘弁と製作希望を懇願するも、 元気がいゝからセールスをやれの一声で青森県で裕次郎、 旭作品を売るハメとなる。 ヒラ月でも逆算四億円と言う重いクォーターを背負い膨大な未収金に館主と一緒に泣き出したい毎日の中で転属を事ある毎に訴えて居た。
そんな時、 社員運動会を西武園でやる事になり、 各部が優勝賞金三萬圓 (大金) を目指して仮装を出す事になった。 我が関東支社は私の発案で 『白鳥の湖』 第二幕のパ・ドゥ・ドゥのアダジオを演ずる事に一決、 超肥満体の先輩セールスをオデット姫役にして、 私が王子ジーグフリート、 毎日本社試写室に鍵を掛け隠密裡に猛稽古を重ねた。 当日特大ツケ睫でクソ真面目に踊る二人に会場が大爆笑に覆われのは言う迄もない。
当時登り坂の日活で一躍有名人となり、 廊下で逢うと堀社長もニヤリとする仕末。 その甲斐あってか念願の撮影所製作部に進行として移動し、 水を得た魚の心境だったが着任した初日につけられた舛田組 『用心棒稼業』 で、 いきなりの大完徹ロケで足が上がらなくなったのを強烈に憶えている。 優勝賞金を伊勢湾台風の救援基金に寄附した事をつけ加えたい。
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