私の新人時代 |
澁谷 康生 (NHK) |
私がテレビの世界に入ったのは1960年。 この年、 ナマ放送からVTRへと放送は大きく比重を移し変えようとしていた。 ナマからVTRへの移行は、 映像表現、 内容の充実・多様性と大きな飛躍があった。 一方テレビドラマの世界では、 フィルムか、 VTRかという将来の方向で揺れていた時代でもあった。 NHKでは、 この年、 「灰色のシリーズ」 「テレビ指定席」 と続く本格的テレビ映画の製作を志向していた。 私自身といえば、 歴史学の研究者を目指していたが、 様々な理由から大学院への進学を諦めざるをえない状況にあった。 そんな折、 知人の紹介でNHKのテレビ映画の助監督として契約することになった。 当時NHKでは映画制作の知識も人員も不足し、 監督以下の演出部、 照明部、 撮影部とすべて契約スタッフで制作していた。 ほんのアルバイトのつもりで深い理由もなく入った世界だったが、 「三日やったらやめられない」 の喩えどおり、 創作現場の雰囲気に魅せられ、 契約を重ね、 いつしかいっぱしのフリー助監督になってしまっていた。 安いギャラに厳しい労働条件だったが、 何よりつらかったのは、 テレビドラマが当時は、 映画・舞台より一段と低く見られていたことだった。 撮影途中であるにもかかわらず 「たかがテレビ映画じゃないか。 役者の命は舞台だよ」 と言って去ってしまった役者の苦い思い出が今でも残っている。 昭和38年NHK大河ドラマ 「花の生涯」 が放送され、 テレビドラマがようやく市民権を得た。 私自身もこの年、 NHKに正式に入局し、 以後、 一貫してテレビドラマの制作・演出にかかわることになった。 私は、 挫折した歴史研究者の夢をテレビドラマの世界で果たせないかと考えはじめていた。 第2次世界大戦の悲惨な記憶は胸に沁みこんでいる。 平和な社会の大切さをテレビドラマを通して訴えて行きたいというのが私の制作者としての原点である。 そして、 歴史学者への夢と平和を希求する心を大河ドラマのプロデューサーとして結実させることが出来たのは幸いだったと思う。 私が制作した大河ドラマ 「おんな太閤記」 「徳川家康」 「いのち」 「春日局」 には新人時代からの思いを込めたつもりである。
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