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私の新人時代 富山 省吾   (東宝)
 1975年入社後まず宣伝部へ。 製作宣伝で4年間、 黒澤明監督 『影武者』 ・深作欣二監督 『復活の日』 で本社宣伝に移動するまで現場を経験しました。 本社では 『海峡』 『小説吉田学校』 『典子は今』 ほかを担当、 『積木くずし』 を最後に93年に東宝映画に移りました。
 宣伝部での経験は撮影現場のスタッフやキャストの心の動きを察する皮膚感となって役立ちました。
 宣伝時代にもっとも影響を受けたのは森谷監督でした。 最初に 「カントクと言う呼び方は相手を人間として扱っていない。 俺のことは森谷と呼べ」 と言われました。
  「カントク」 と言う呼び方には使う側の特別な気持ちがこめられています。 尊敬や敬愛の気持ちだけでなく、 恐怖や密かな反抗、 侮蔑が染み込んでいることを森谷さんは聞き逃さなかったのでしょう。
 東宝映画での最初の現場は84年、 市川崑監督の 『おはん』 でした。 ある時私のミスで吉永さんをトラブルに巻き込み、 お詫びしたことがありました。
 翌日朝 「昨日は申し訳ありませんでした」 と改めてご挨拶した時、 吉永さんはさっぱりと 「昨日のことはもう忘れましたから」 と返事されました。 次の日に引っ張らないその清々しい姿勢と、 前に進む意欲、 さらには人間としての大きさに感動しました。 そして殊勝さを演じた自分が実につまらない人間に思え、 猛省しました。
 翌々年、 当時の東宝映画社長・田中友幸から大森一樹監督と一緒に 『ゴジラVSビオランテ』 の脚本を作るよう指令を受けました。 ゴジラとの出会いでした。
 以来18年、 現在製作中の 『ゴジラ FINAL WARS』 は50周年にして最後の作品として田中プロデューサーから学んだことを礎に、 怪獣特撮50年の面白さを1本に詰め込む映画として製作に臨んでいます。 北村龍平監督は34才、 奇しくも 『ビオランテ』 を始めた時の大森監督と同年齢の俊英です。
 時を同じくして東宝スタジオも新時代に向けて大リニューアルプランの実行を開始しました。
  『ゴジラ FINAL WARS』 でゴジラは50年の歴史の幕を閉じますが、 映画を見た新しい世代がクリエイターとなってこのスタジオに入って来た時、 きっと新生ゴジラも誕生すると信じています。

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