日本映画テレビプロデューサー協会報2008年4月号

「プロデューサーズ・カフェ冬」 開催!

フジテレビ 小寺  尚

フジテレビ 小寺  尚 映像界のヒットメーカー=経験豊富なプロデューサーを招いて、 若いプロデューサーたち又は次のステップを目指している者たちを前に映像制作にかける情熱と熱意を、 その経験と技術と共に大いに語って頂く会、 「プロデューサーズ・カフェ」。
  その第三回となる今回は 「垣根を越えた映像界 その中でのプロデュース」 と題し、 フジテレビで3月14日 (金) に行われました。 ゲストにお招きしたのはフジテレビ 執行役員常務 映画事業局長 亀山千広氏。 言わずと知れたこのヒットメーカーを前に男女総勢33名、 協会所属の各社から様々な人達が集まりました。
  「邦画バブルといわれていますが…」 という刺激的な話からスタートしたこの会は亀山氏の映画を中心とした映像業界の現状分析から、 その中でプロデューサーとはという論へと展開して行き、 その折々に 「踊る大捜査線」 を含む数々の大ヒット作の裏話だけでなく、 自らの作品に対する反省点さえも忌憚無く語って頂きました。
  曰く、 マーケットとして現在ある全ての劇場から換算される座席数を見ると、 それら全てが埋まれば1兆円規模とも成り得る潜在性を秘めており、 十分ではないが数々の大ヒット作が業界全体の底上げをしている為、 バブルという印象を与えていると思われる。 このような中でプロデューサーに求められるのは何を作りたいかというビジョンとそれを実現させる為のイマジネーションをどれだけ持っているかということ。 自分が出来ない時は、 才能のある者を見きわめて、 ノセて、 その人にやらせてしまう、 ある種詐欺師の才能(?!)=プレゼン能力も必要である。 特に印象的だったのはどの論点にも必ず“お客さん”にという言葉が入っていたことでした。亀山千広氏 (フジテレビ)プロデューサーズ・カフェ 冬 会場風景 クリエーターとして 「面白い」 ものを作るのは当たり前、 プロデューサーはその次の段階、 お客さんに 「面白そう」 だと思わせるにはどのような事をする必要があるのかを考えなければいけない。 又お客さんとメディアとの距離感が人々に多大な影響を与えており、 その観点からメディアを3㎜、 30cm、 3m、 30mと距離感で4つに分類すると……。
  ここから“カフェ”ならではの展開があるのですが残念ながら字数が足らず、 結局約二時間にも及んだこの会をどのように伝えましょう?そう、 ストーンズやU2、 普段アリーナでしか演奏しないビッグアーティストが一夜だけ行うライブハウスでのギグ。 あの興奮を想像してみて下さい。 これぞまさに……ってカフェじゃないの!?

市川崑監督を偲ぶ

藤井 浩明
藤井浩明「製作されなかった一本の市川崑映画」

 市川崑監督と日仏合作映画の打合せのためパリへ飛んだのは、 1961年、 爽やかな5月だった。 市川監督は、 「鍵」 (59)、 「おとうと」 (60) とカンヌ映画祭に出品し、 最も注目される監督だった。 戦争中に育った私は、 生まれて初めてのヨーロッパに圧倒された。
  当時、 敗戦国日本の海外渡航は極めて不自由で、 所持金は一人1500ドル。 一ヶ月の間にパリ、 南フランスを、 時には一日500キロという苛酷なスケジュールで飛び廻っていたが、 日本人に出会ったのは、 僅か五、 六人。 今日とは隔世の感があった。
  それより前、 アラン・レネ監督が日本ロケをした 「二十四時間の情事」 は、 世界中に大きな話題を呼んだ。 プロデューサーのアンドレ・フエ氏は、 日仏合作映画の次なる企画を大映に持ち込んで来た。 演出は、 市川崑監督。 シナリオは橋本忍氏の予定だったが、 急病のためフランスの脚本家を起用することになった。 アンドレ・フエのプランによると、 脚本は大ベテランのシャルル・スパーク又は、 当時、 世界中に新しい文学の風を巻き起こしていたマルグレット・デュラスか、 アラン・ロヴグリエのどちらか。 撮影はアンリ・ドカエか、 宮川一夫。 配役は、 岸恵子か若尾文子。 男優は、 ベルモンドかアラン・ドロン。 目も眩むような顔ぶれである。
  そして、 市川崑監督が選んだ脚本家は、 アラン・レネ監督の 「去年マリエン・バードにて」 のロヴグリエだった。 常に新しい映画作りに挑戦する市川監督らしい人選に、 私は敬服した。
  フランス滞在中は、 当時、 ヨーロッパで最も著名な映画学校に留学していた高野悦子さん (現・岩波ホール総支配人)。 前年、 イヴ・シャンピ監督と結婚して、 パリに新居を構える岸恵子さん。 文部省給費留学生の奥山長春さん。 東和映画パリ支局長の白洲春正氏。 といった凄い方たちが、 右も左も分らない私たちを応援して下さった。
市川夫妻とロヴグリエ夫妻・筆者  帰国した私たちを追うように、 ロヴグリエ夫妻が来日。 東京、 京都、 奈良等々、 彼が希望する場所を私は案内した。 その時、 通訳兼翻訳の労をとって頂いたのが、 東大大学院の若き学生、 蓮實重彦氏 (後の東大学長) だった。 ロヴグリエとフランス文学について話し合う蓮實さんの若々しい笑顔を、 私は昨日のことのように思い出す。
  やがて、 パリから待望のシナリオ第一稿が送られて来た。 しかし、 当時の日本のシナリオと余りにも違いすぎ、 大映の重役会で否決されてしまった。 この映画が完成していたら、 世界の映画界に衝撃を与えただろうと、 今でも私は思っている。 「炎上」 以来18本の映画を作り、 長年に亘り公私共にお世話になった市川崑監督の悲報の三週間後、 外電はフランス文壇の大御所ロヴグリエの死を伝えて来た。 「涙なきフランス人」 の中止後も、 私がパリへ行くと、 自宅へ招んでくれ、 いつか映画を一緒に作ろうと云ってくれたロヴグリエ。 この二人の偉大な先人に、 合掌。

只今撮影中

東映 香月 純一
東映 香月 純一「相棒-劇場版-」

  「相棒」 は 「ただいま撮影中」 ではない、 「ただいまプロモーション中」 である。 昨年07年はほぼ一年中 「撮影中」 であった。 2月まではTVシリーズseason5、 3-5月は 「劇場版」 の準備であったが、 6/5にクランクインすると、 8/5のアップの翌日からseason6の撮影に突入した。 TV・映画双方に携わるキャスト・スタッフは文字通り 「相棒漬け、 相棒三昧」 である。 その 「長征」 とも言うべき旅も、 08年2月一杯でのseason6の撮了を経て、 「劇場版」 のプロモーションがあり、 5/1の劇場公開に向けて最終段階に入ろうとしている。
  相棒とは……。 「警視庁の陸の孤島」 と呼ばれる窓際部署“特命係”には、 抜群の頭脳と推理力を持つ杉下右京 (水谷豊) と、 熱血漢で行動力が自慢の亀山薫 (寺脇康文) が在籍している。 仕事を与えられない窓際部署のはずだが、 それゆえの機動力と二人の抜群のコンビネーションを活かして数々の難事件を解決してきた。
  “特命係”の活躍を描く 「相棒」 は00年テレビ朝日土曜ワイド劇場の一作品として誕生した。 好視聴率と高い評価に支えられシリーズ化 (3本)、 02年には連続ドラマ化、 season6まで回を重ねた。 DVDの好稼動、 オフィシャルブックの好調な売行きなど、 ファンの後押しで今回遂に映画化が実現した。
  私は土曜ワイド時代の立ち上げから映画部に異動になるseason3まで担当した。 劇場版製作に当り 「相棒ワールド」 に帰還することができ、 嬉しくもあり光栄でもあった。

 映画化に当ってプロデューサー陣と脚本家で肝に銘じたことは、 映画だからと言って気負い過ぎてTVと違うことをやろうとすると失敗する、 この一点であった。 「相棒」 がファンの方々に喜ばれ、 高い評価を頂いているところを追求・拡大していけば必ず面白い作品が出来上がると信じた。 推理ドラマとしての面白さ、 キャラクタードラマとしての楽しさ、 “特命係”という虐げられた存在であることが魅力的に見えること、 そして 「社会派ドラマ」 として現在という時代に切り結ぶこと、 である。
「相棒-劇場版-」  ビジネスとして成功を目指す上でテレビ朝日にお願いしたのは二点である。 一つは開局50周年記念作品として制作すること。 「相棒」 は局内にもファンが多い。 撮影時の技術陣・アナウンサーの協力に始まり、 編成・営業・コンテンツ事業・ウェブ等々有形無形の支援を頂戴している。 何より大きいのはseason6の半年間をかけてプロモーションできることだ。 もう一つはテレビ朝日系列史上初のネットワーク全局出資である。 地方では視聴率20%を超える局がいくつもある。 昨年末から年明けにかけて全国を回らせてもらったが 「相棒のためなら」 と様々な提案と協力をいただいている。 全局を挙げた取り組みが必ずや大きな果実を実らせてくれるだろう。
  「相棒-劇場版-」 は是非繰り返して観てほしい作品である。 練り上げられたストーリーもさることながら、 何度か観ると俳優陣の熟練の演技が横溢していることに気付かされる。 序盤の片山雛子議員襲撃の件(くだり)、 中盤の臨海大橋の件は秀逸であると思う。
  「相棒-劇場版-」 はこれまで 「相棒」 に携わったスタッフ・キャストの努力の結晶である。 今まで支持応援して下さった方々には一つの集大成として、 まだ観たことのない方々には大きな驚きをもたらしたい。
  GW5/1公開です。 是非御高覧下さい。

私の新人時代

日本テレビ 奥田 誠治

日本テレビ 奥田 誠治 1980年新入社員の私は漆戸編成部長 (現BS日本会長) のもとへ配属。 鬼の上司、 務台 (現宮城テレビ社長) 平井 (故人) 両氏のもと厳しく鍛えてもらいました。 その5年後 「太陽にほえろ」 の岡田部長率いる編成局番組部に異動となりました。 映画放送や外部制作ドラマを担当する部署で、 初めての担当がアニメ 「風の谷のナウシカ」 の初放送でした (これが、 宮崎監督・鈴木P両氏との約25年間に渡る付き合いの始まりでした)。 そして翌年の春、 「俺たちの旅」 の中村良男Pのもと初プロデユースしたのが秋吉久美子主演期首TVスペシャル 「セカンドバージン」 でした。 当時の萩原編成部長 (現ヴェルディ会長) がこのタイトルじゃダメだ、 ということで 「遊び上手」 という艶っぽい? タイトルをつけてもらい高視聴率を獲得したのです。 タイトルの重要性はここで学びました。
  また、 そのころ週枠もあった再放送枠すべてが私の担当となり、 ここぞとばかり自分が見たいTVシリーズをOAしまくりました。 日本テレビの名プロデューサー達、 小坂敬氏の日活TV作品 (「あいつと私」 他)、 岡田晋吉氏の東宝TV作品 (「青春とはなんだ!」 他)、 安田暉氏の松竹TV作品 (「風と樹と空と」 他) などなど。 他に、 「宇宙大作戦 (スタートレック)」 等米国TVシリーズもどんどんOAしました。
  もう一方で、 非常に著名な監督作品で仙台を舞台にした映画の放送ではOA前の下見の際、 あるシーンで一瞬赤いものがちらついたのです。 下見終了後早速VTRを巻き戻しそのシーンをチェック。 するとわずか1フレに動物の生殖器らしきものが。 よくよくみるとどうみても人間の女性のものにしか見えないのです!あやうく全国のお茶の間に危険な映像を流すところでした (笑) たぶんビデオのない時代、 監督のいたずらでいわゆるサブリミナル効果を狙ったものだったのでしょう。 また、 初めて製作担当した劇場映画・大林宣彦監督作品 「野ゆき、 山ゆき、 海べゆき」 では、 放送時、 レギュラーOA枠に合わせて監督自身にカットをお願いしました。 これも下見でびっくり。 完成品は、 ノーカットでアクションシーン全てが早回しになっていたのです! あまりのことに、 私は気絶しそうになりましたが (笑) ここは、 腹を決めこのままOA。 後に評論家の目にとまり大評判という結末に。 今思えば楽しい思い出ばかり。 本当に私にとっては意義のある新人時代でした。
  その後、 金曜ロードショーのプロデューサーとして放送権買い付けの仕事をするとともに、 一方で劇場映画の製作も本格的に始まりました。 その第一弾が1989年ジブリ作品 「魔女の宅急便」 でした。 この映画が本当の意味で山あり谷あり (しばらくは、 ジブリ以外は、 ほとんど谷ばかりでした) の映画人生のスタートでした。

事務局だより

◎正会員入会

◎退会

◎訃報

総会と懇親パーティーのご案内

第32回通常総会を左記により開催致します。 正会員の方はご出席ください。
総会終了後、 恒例により懇親パーティー (午後6時開宴予定) を開きます。
賛助会員の方々も、 お誘い合わせの上、 是非ご参加下さい。

「平成19年度臨時総会」 開催

定款第24条に則り、 左記次第にて臨時総会を開催いたします。

尚、 当日ご都合にて欠席される正会員の方は、 総会成立のため必ず (委任状) 同封ハガキをご送付下さい。

インフォメーション

◎会議の記録と予定

3月10日 (月)   会報委員会 (事務局)
3月17日 (月)   親睦委員会 (事務局)
3月24日 (月)   第9回定例理事会/ 臨時総会 (東映本社)
4月21日 (月)   会報委員会 (事務局)
4月24日 (木)   第10回定例理事会  (東映本社)

編集後記

 春です。 桜が咲きました。
 今号は四人の会員に原稿を書いていただきました。 二編は過去を中心に、 後の二つは現在を。 読むとその時代に関係なくどの原稿も情熱が感じられて、 感動してしまいました。 いくら時代を経てもプロデューサーの仕事って、 やっぱり情熱が原点なのかなと。
  これからも色んな会員の情熱を皆様にお届けできればと思っております。 (里中)