「特別賞」は、日本の映像界で顕著な活躍と、業界の進歩と向上に貢献ありと認められた方を、ご推薦下さい。
「作品賞」はテレビドラマに関しては、資料のリスト以外の作品でも結構ですから候補作品を投票して下さい。
(エランドール賞委員会)
協会員の皆様にも多大な協力を頂いた「国際ドラマフェスティバルinTOKYO 2008」が無事終了しました。10月22日の授賞式・記念パーティーは昨年に続き石坂浩二さん、八木亜希子さんの司会で行われ、各賞受賞者、および関係者も含め500名もの人々が訪れました。注目の「東京ドラマアウォード」では、グランプリに、連続ドラマで「パンドラ」(WOWOW)、単発ドラマで「点と線」(テレビ朝日)が受賞しました。「パンドラ」はこの他に脚本賞(井上由美子)・演出賞(河毛俊作)を、「点と線」も演出賞(石橋冠)・特別賞(美術スタッフ)と、両作品とも3部門で受賞しており、作品の持つクオリティの高さを示していました。このほか部門賞では、キッズ&ヤング部門に「ケータイ捜査官7」(テレビ東京)「ラスト・フレンズ」(フジテレビ)の2作品が、ファミリー部門では「斉藤さん」(日本テレビ)、時代劇部門では「篤姫」(NHK)、ノンジャンル部門では「SP」(フジ、)がそれぞれ選ばれ、舞台は各賞受賞者のみならず、たくさんの出演者の方々やスタッフに飾られていっそうの豪華感が醸し出されました。それに続くパーティーでは和やかな雰囲気の中に、上海国際映画祭のタン・リーチュン事務局長、ソウル・ドラマフェスティバルのチェ・ジニョン事務局長、広瀬実行委員長の3人の間で握手が交わされ、このイベントをきっかけにアジアのドラマコンテンツが世界へむけて新たなる展開をむかえた事を確認する会にもなったのでありました。
翌23日は基調講演者の変更はあったものの、アジア4カ国からの招待作品の上映会が行われ、TIFFCOM会場に設けられたブースには最終日の24日までに16ヶ国もの人々が訪れるなど、盛況のうちに幕を閉じたのでありました。
11月13日午後4時から、TBSセミナー室において、講師に貴島誠一郎、瀬戸口克陽(共にTBS)を迎え行われた。参加者は40名を超える盛況であった。
テーマとなっていた「ドラマの過去と未来」では、貴島Pが70年代からのドラマの流れをざっと説明しながら、どうドラマを作って来たかを語り、未来については、テレビのサイクルから言っても、再びドラマ全盛時代が来るのではと予想。瀬戸口Pは「アラフォー」制作のきっかけになった興味深い話を出し、所々貴島Pが的確な質問を投げかける等、二人のコンビトークが冴えわたった。
続いてのテーマ「原作ものとオリジナルもの」では、瀬戸口Pが「視聴者にとって面白いものであれば、どちらでも良い、大事なのは視聴者」と語り、貴島Pは「社会現象を織り込めるオリジナルドラマが出るのは、健全な時代」と冷静に分析した。また、原作ものであっても、原作を遥かに凌駕する脚色の発想力がプロデューサーと脚本家に必要である事、そして、編成も役者事務所もオリジナルドラマの企画に対して、もっと想像力を働かせて欲しいとの現場的発言も出て、参加者を唸らせた。
質疑応答も活発に行われ、余談ですがと言いながら、「私は貝になりたい」制作Pの瀬戸口が、脚本家の大御所橋本忍氏と繰り広げた苦難の交渉の話を熱く語り、参加者は皆、興味津々耳をかたむけた。
予定していた2時間もあっという間に過ぎ、有意義なイベントであったと思う。今後とも、発展して行く事が望まれる。
滋賀県彦根ロケにまつわるエピソード。エキストラを乗せたバスが、高速道路上でタイヤ故障を起こし、立ち往生してしまいました。止まっているバスに、猛スピードの車がぶつかっては危険です。すかさずバスを降りて、標識を立て、敏速に交通整理を始めたのは、バスに乗っていたエキストラの人たちでした。ただこのエキストラの人たち、時代劇のロケ後だったので、そのまま裃(かみしも。武士の正装)を着て、ちょんまげをしてました。高速道路上で何人もの侍が、懸命に車の誘導を行いました。
「もういくつ寝るとお正月。お正月には凧あげて、独楽を回して遊びましょ……」
こんなお正月の風景なぞ、とうに忘れ去られてしまった昨今ですが、時代劇制作者にとってお正月と言えば、何といっても恒例となった「新春ワイド時代劇」(テレビ東京系)です。
毎年1月2日午後2時から一挙10時間もの長尺で放送されるこの超大型時代劇は、いまやお正月の名物テレビ番組と称され、長きにわたりお茶の間に愛され続けてきました。
来年2009年の放送作品は、弊社が企画制作を進めた「寧々 おんな太閤記」に決定しました。この作品は、ご存知の方もおりましょうが、27年前にNHK大河ドラマで一年間放送された「おんな太閤記」をもとにしております。橋田壽賀子さんが自作シナリオを小説化された『おんな太閤記』を原作とし、今回10時間のドラマに仕立て上げました。
物語は、織豊時代、足軽から関白太政大臣へと類を見ない出世と偉業を果たした豊臣秀吉、その妻・寧々を主人公にし、戦国動乱期から徳川幕府成立までの歴史的激動の時代を、戦国の女性たちの目を通して描いたものです。秀吉を内助の功で支えた寧々の波乱に満ちた生涯のドラマです。
いまや女性を主人公にした時代劇の草分け的な存在となった「おんな太閤記」がここに蘇り、装いも新たに製作することとなったのです。
加えて魅力は豪華なキャストです。14歳から74歳までを演じきる主役の寧々には、仲間由紀恵さん。豊臣秀吉には歌舞伎俳優の市川亀治郎さん、織田信長には村上弘明さん。秀吉の母・なかは十朱幸代さん、徳川家康には高橋英樹さん、などこの他にも素敵な俳優の方々が脇を固めています。また、ナレーションは森光子さんにやっていただきました。
撮影は、京都太秦にある松竹京都撮影所で行われました。10時間分の時代劇の撮影となると、並大抵のものではありません。8月20日のクランクインのときには半袖Tシャツ姿のスタッフが、クランクアップの11月終わりには、厚手のフリースに変わっていて、足かけ四か月、三つの季節にまたがっての撮影だったことを実感いたしました。
何を隠そう私は、松竹に入社してまだ2年足らず、新人研修を経てすぐテレビ部に配属となりました。アシスタントプロデューサーとして2時間単発ドラマ2本の経験しかない自分にとって、いきなりの大型10時間時代劇担当は私にとって脅威でした。もう右も左も時代劇も分からないまま、京都撮影所缶詰状態で、怒涛の四か月が過ぎ去りました。毎日が刺激的であり、緊張と不安の連続でしたが、今こうやってAPとしてこの作品に従事できたのは、出演者の方々とスタッフのみなさんの頑張りに、自分が励まされていたんだなぁと心底感じております。ちょんまげに裃の時代衣装で、交通整理をやってくださったエキストラさん含め撮影所みなさんのおかげで、この作品が出来上がりました。ご覧いただければ幸いです。
私が入社したのは、次の年に開催されるモスクワ五輪の独占中継権を獲得、局名もテレビ朝日と改まったばかりの1979(昭和54)年の春のこと。採用自体が数年ぶりならば、その形態も「制作・演出要員」枠が設けられており、私を含めて五人の人間が採用された。当時のテレビ朝日では、美術=セットのことがわからないと良きDには(ひいてはPにも)なれないとされており、三人は制作・ふたりは美術部に配属され、一年後に入れ替わるという「美術研修」スタイルが採り入れられていた。
私は美術組とされた。「はい、これが井君のナグリ」と、配属の朝、美術部長の前に行くと金づちを手渡されたときは、正直ショックではあった。制作現場への貼りつけが保証されているから「制作・演出要員」で入社試験を受けたのに、という想いである。
次の日からの私の主だった仕事は、モスクワ時間で行われているプレ・オリンピックの模様を伝える夜中の番組のMC席や『徹子の部屋』の黒柳徹子さんの部屋の、本番前の掃除とテーブル花の確認ということになった。歌番組の生中継のために葉山マリーナのステージの飾り付けに早朝から出向いていた時期を経て、ドラマ作品の美術進行のようなことを半年、美術部の前には総務部による研修もあったので、そこで入社一年がたち、晴れて制作に異動、ドラマ班の演出部に所属することになった。
これ以降の数年間は、ADとして次から次へと作品につく「滅私奉公」の時代ではあったが、楽しさに満ち満ちていた。
お題として求められている「私の新人時代」とは、ここまでの時間を指すのだろうが、この数年のちに経験した編成企画部や編成部の時期を経て、すなわち、本当の意味での「テレビマンとしての構え」を自覚するようになって、はじめて「私の新人時代」は終わったと、いまでは思うようになっている。
なので、編成に異動になり制作を離れるのを残念がっている若い制作者を見ると、私は「編成なる、局にしかない部署を経験するのは必要である」と声をかけることにしている。
11月7日(金)グリッサンドゴルフクラブ(千葉県成田市)に於いて、心配された天候にも恵まれ15名のメンバーで親睦ゴルフ会コンペが開催されました。(競技方法は新ペリア方式で行われました。)(親睦委員会)
順位 | 氏名 | O | I | G | H | N |
---|---|---|---|---|---|---|
優 勝 | 財津一郎 |
42 |
41 |
83 |
8.4 |
74.6 |
準優勝 | 稲田大介 |
42 |
52 |
94 |
19.2 |
74.8 |
3 位 | 遠藤 環 |
44 |
43 |
87 |
10.8 |
76.2 |