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それはバクチで始まった 荒木 正也
 私が初めてプロデュースした映画は『赤ちゃん台風』という松竹の二本立ての内の添え物の小作品でした。もう45年前のことです。当時は今の方が「本当ですか?」と言われるくらい日本映画の全盛期でした。撮影所には全機能が備わっていました。現像も仕上げも全部内部で出来るようになっていました。従って人材も撮影所で育成していました。そんなわけで、初めてのプロデュースと言っても教育の一環で、撮影所の次長のベテランの方が指導して下さいました。既に企画も脚本もキャスティングも殆どお膳立てが済んでいましたから苦労はありません。私の指導をして下さったのは『君の名は』の大プロデューサーの山口松三朗さんでした。彼が私に与えた最初の指示は、脇役の中で最も重要な女医の役に予定している轟夕起子さんのギヤラを70万から50万に値切って来いということでした。早速、轟さんのお宅をお訪ねしました。「会社は50万にして頂きたいと申していますが、45万と覚悟して頂いて残りの5万で今度の日曜のレースでXXの単勝をお買いになって下さい。きっと6倍はつきます。そうすれば、正規のギャラになるかと思います」轟さんの目が笑いました。XXという馬は轟さんのご主人の島耕二監督の持ち馬です。OKが出ました。帰って報告すると山口さんがニヤッと笑って合格と言って下さいました。この作品は桑野みゆきが主演でしたが、主題を担うのは赤ちゃんです。主役の赤ちゃんは助監督の岩城さんの息子さんが演じましたが、その次に重要な赤ちゃんには話題性が欲しいと思い、丁度雑誌のグラビアで見た横綱の千代の山の坊やの出演をもとめるべく出羽の海部屋へ赴きました。玄人あがりと思える色つぽい奥様が喜んでOKして下さいました。出演の日は取的の弟子が二人お供で来ます。天下の横綱は大したものです。フランクアップすると御礼にと部屋に招いて下さってご馳走です。ところがご馳走の後は麻雀です。レートが幾らか聞くことも出来ません。幸い勝って終わったのですが、何と通常私がやっていたレートの10倍です。個人で赤ちゃんのギャラを十分取り戻してしまったのです。どうやら私のプロデューサー人生はバクチから始まったようです。27才の秋でした。

プロデューサーも夜討ち朝駆け 岡田 晋吉
 「太陽にほえろ!」の脚本作りに没頭していたとき、朝まだ夜が明ける前に、よく脚本家の家を襲った。当時はまだワープロなどという便利なものが無く、脚本家の手書きの原稿を印刷屋のタイピストが活字を拾って台本を作っていた。どの脚本もぎりぎりまで書きあがって来ないので、この印刷の時間のために、クランクインを一日遅らせなければならなくなってしまったことがあった。原稿を印刷屋に放り込む時間が朝の10時を過ぎると、印刷上がりが次の日になってしまうので、一日損をしてしまうのだ。何としても、10時までに原稿を印刷屋に届けなければならない。そのため、脚本家の家族の方には、随分と迷惑をかけたが、朝の5時に脚本家の家を訪ねたのだ。
 5時から完成した脚本を読ませてもらい、内容の打ち合わせをして、時には直しをと言われていても、ラストシーンがまだ書かれていないこともある。その書き足しの時間も見なければならない。そこで、こんな時間に、脚本家の寝こみを襲うことになるのである。われわれは、恐怖のプロデューサーと呼ばれていた。
 最近、脚本家がシナリオを書き上げたとき、携帯電話で、「完成したら、印刷屋にファクスしといてよ」と言って、台本が印刷されるまで目を通さないプロデューサーがいると聞く。携帯電話、ファクスなどが発達した現在では、こんな手法が当たり前なのかも知れないが、私はちょっと寂しい。脚本家がシナリオを書き上げてくれたら、それが早朝だろうが、真夜中だろうが即座に駆けつけて読ませてもらうのは、血の滲むような努力をしてくれた脚本家に対する礼儀ではないだろうか。そんな考えは古いと言われてしまえばそれまでだが、プロデューサーと脚本家のこんな闘いがドラマを面白くするのだと私は思う。
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