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私の新人時代 (フリー演出家) 堀川とんこう
 いきなり古い話です。 一九六一 (昭和36) 年の六月にドラマのADになった私は、 六三年の七月までの二年間に、 ぶっつづけに九十本のドラマにつきました。 すべて三十分ドラマですが、 今では信じがたい数字です。 週のうち三、 四日は会社の契約旅館に泊り、 満足に休日もない生活でした。 しかし、 二年経った時の私の評価は芳しいものではありませんでした。
  「お前が同期のなかで一番動きがにぶいらしい。 人から言われる前に先へ先へ動かなきゃダメだ」
 部長がそういうのです。 が、 私はなぜか少しも慌てませんでした。 早く一人前のADになろうという気持はなく、 生意気に、 ゆっくりといいディレクターになるつもりでした。
 そのことよりも、 九十本のなかに 『雪国 (六回)』 『斜陽 (八回)』 『おはん (五回)』 が含まれていたことが、 私にとって大きな事件でした。 もうすでに、 テレビドラマについて高をくくっていた私は、 この三本によって急に目の前に広い荒野が広がったような不思議なショックを受けたのでした。 テレビドラマは一生の仕事になるかもしれない。 文学作品が示している到達点まで、 テレビが行くにはまだまだ長い道のりが残されている。 いつか、 そこまで自分の手で行けるのか。 不安と希望が胸に満ちるのを感じたのでした。
 当時、 先輩たちの机の上に、 近くの書店が配達する小説誌3誌や文芸書の新刊が並んでいるのをよく見ました。 何が話題なのか、 先輩の机を見るとわかりました。
 思えばテレビドラマは、 先輩ジャンルの演劇や映画や文学に長い間コンプレックスを抱いていました。 技術的にも内容的にも、 先行ジャンルの背中を見ながら走っていた。
 テレビが一等賞、 と皆が思うようになったのは、 産業としてのテレビが大成功を収めたときでした。 一九八○年頃でしょう。 その時に、 テレビドラマの頽廃が始まったと思います。 文化として先輩を追い越したと錯覚した。 もう羨んだり見習ったりする努力目標はない、 と。
 テレビドラマは、 まだジャンルとして自立しきれていなかった。 自立したジャンルは、 自分の水準を維持する自律的な力を内部に持っているものです。 最近ドラマを見ていると、 高をくくっていたAD時代を懐かしく思い出します。 また、 ここからやり直すのだな、 と。
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