ALL NIPPON PRODUCERS ASSOCIATON
事 務 局 あ ら か る と
想いだすままに (元事務局長) 舘野昌夫
 荒木正也会員製作の 「死の棘」 がカンヌ国際映画祭でグランプリの快挙、 その余韻が残る一九九一年に協会事務局を与かることとなりました。 映像文化を担う秀れ者のプロ集団、 心して臨みましたが、 待ち受けていたのはバブル経済の破綻という事件であり、 不況の波が寄せ始めた年でもありました。
 会費が唯一の財政基盤の協会も例外とは言えず、 伝統のイベント 「エランドール賞」 の運営を始め各委員会活動への影響も少なくありませんでした。 七年来の会費値上げを余義なくされ、 委員会、 理事会での議論から文化庁への根廻しと難題に取組んだのが就任事始めでありました。 定款改正とともに二年越しの総会決議で一件落着となった事も遠い記憶となりましたが、 テレビドラマ作りの頃とは異質の苦しみに些か草臥れたことも確かでした。
 不透明な経済社会の中にも拘わらず各委員会は活発な活動を展開します。
<不況を切り拓くプランナーの秘密の手の内を教えます。 >恒例の催し 「ザ・ヒットメーカー」 のキャッチフレーズにも往時の世相が見てとれます。 開催当日来日したアメリカの流行作家シドニーシェルダンを古賀伸雄委員が飛び入り出演させて会場を沸かせたことも印象的でした。
  「アジアのテレビドラマ」 の放送番組化をNHKと契約、 シンポジウムの会場から中継録画で七十五分の放送となったことも協会の活躍を内外に示した好機会でした。
 東京国際映画祭で来日のプロデューサーと会員の対話集会も協会ならではの催しで、 有意義でもありまた面白い集りでもありました。 フランスでは国の映画産業を守るため入場料の税金十一%が製作費などすべての助成に使われる。 この保護政策のご披露に及んだフロディ・オサール女史の言葉に会場がどよめきました。 余談ですが、 後日このことを文化庁の某氏に話したところ氏は 「ほう、 そうですか」 のひと言でした。
  「アメリカではシナリオの開発に年間五億ドル以上を投じている。」 イギリスのデビットパットナム氏の言葉ですが、 更に氏は 「日本映画の衰退の原因は、 自己陶酔の作品を作りつづけお客の好みをよく知って作っているアメリカの方へ観客を追いやったからでは?」 などと言ったものです。 いづれにせよ彼我の違いを物語る刺激的な言葉を残して行きました。
 会議と言うかたちから離れた場、 言わば遊びの中から思わぬ好企画が生れることがあります。 その効能を会得していた会報委員会の今戸榮一編集長が折にふれて試みた小さな旅からは、 しばしばユニークな発想の企画が生れ誌面を飾ったものでした。
 先人達が築いて来た貴重な半世紀、 その僅か一齣の勤めでしたが、 果してお役に立ったものかどうか、 汗顔の想いが残ります。 更なる五十年目の協会はどんな姿を見せているでしょうか、 ボーダレス時代とは既にひと昔前に語られていました。 世界のANPAへの飛躍を願って止みません。
 事務局を退いた一九九五年は、 阪神淡路大震災、 地下鉄サリン事件と暗い世情でしたが、 小さん (八十歳) の落語界初の人間国宝が明るくしてくれました。 そして 「午後の遺言状」 の観客が映画館を埋め尽していました。
会員年男=新年の抱負を語る=back会報トップページnext事務局だより