日本映画テレビプロデューサー協会報

No.403  2012年1月号

新年のご祝詞を申し上げます

会長 杉田 成道

会長 杉田 成道 明けましておめでとうございます。
 昨年は日本を震撼させた一日によって、歴史の転換点にいるがごとき経験を誰もがしたと思います。震災は我々の国のあり方を、また個人個人のこの先の生き方を、ともに根底から見直すことを日本人すべてに迫ったと言っても過言ではないでしょう。原発が如実に示すように、たぶんそれは五十年というような長いタームの歴史のあり方なのかもしれません。世界を見ても、欧州、アジア、アメリカ、どれをとっても混沌とした様相は、この先どのような時代になるか、誰もが予想すらつきません。
 そんな中で、技術革新だけが我々の理解を超えるスピードで進んでいるようです。映画界は、シネコンのデジタル化はすでに50%を超えていると聞きます。次々に出される精密なビデオカメラによって、このままフィルムは消えてしまうのだろうか、という危惧すら生まれてくるほどです。フィルム缶に夢をえがいたアナログな時代は過去のものとなり、デジタル信号のお皿の前に、職人たちが為す術もなく佇んでいる光景を目に浮かべるのは幻想でしょうか。
 テレビを見れば、一歩先にデジタル化という一大事業が終わり、ネット社会と今まさに融合を始めています。3・11の放送はこの融合を目の当たりにさせました。津波の生々しい映像は、ほとんどが個人の携帯やビデオで撮られたものであり、ネットで流通したものが多かったようです。放送局は空撮しか方法はありませんでした。情報は放送局から一方的に発信する時代と比べると、隔世の感があります。
 そしてHUT(総視聴世帯)の減少とともに、もはやテレビもパソコンもスマートフォンも、みんなひっくるめてテレビという、そんな時代に入っているような気がいたします。ソフトの制作もあらゆるネットワークを通して多岐にわたる方法論が模索されているでしょう。現実に、あらゆるテレビ局が地上波の限界から一歩抜け出そうと、生き残りを賭けた闘いが水面下で始まっているようにも思えます。
 また、国境を越えて、特に経済成長が著しいアジアに向けて、産業も含めて流出して行くでありましょうし、また様々な摩擦も生まれましょう。
 まさに時代は混沌としています。いつ恐慌が起こってもおかしくない現実が目の当たりにあります。何か昭和の初年ごろを連想させるような、闇の中でそれぞれの国の我欲がぶつかって、とてつもない方向に奔流となって流されて行く怖さすらあります。
 いきなりこんな時代に遭遇してしまった私たち制作者は、どうすればいいのでしょうか。ただじっと見ている他に術はないのでしょうか。答えはきっと個々人の内にしかないと思われますが、時の流れとうねりをじっと注視するのもまた、私たち制作者の役目であるような気もしてなりません。はたして吉と出るか凶と出るか、いずれにせよ私たちは新たなる時代に入ったことは間違いないようです。濁流を泳ぎきる会員諸氏の健闘を祈念して、あいさつに代えたいと思います。

会員 年男・年女  新年の抱負を語る

昭和15年生まれ

現代制作舎 豊田 紀雄

現代制作舎 豊田 紀雄 「夢の話」

 ―こんな夢を見た。
 ー××君、先日東京現像所の試写室に行ったら、何やら目新しい絵が展示してあるじゃないか、で訊ねたら、君が飾ったという話じゃないか、そうなのかね?
 「はあ、二年程前から現代美術の作家達の絵を、試写会場の前室、本館の廊下や会議室に飾らせてもらっています。日本の映画やテレビに彼ら現代美術の、貧しくとも力のある作家達の絵を使ってもらいたいという思いで、風野社長にお願いしたのです」
 │役者も売ることの出来ないくせに、そんなことをやるなんて、この愚か者メ、といいたいところなんだが、今度私が企画している映画が、まさに現代美術の作品がかなりの数必要なんだ。君に全てまかせるから、作品の選定をたのむ。
 「ははあ、喜んでお引受けいたします。昨年個展を開催して評判をとった高木敏行、堂免修、市野裕子あたりいかがでしょうか。あっ、ついでといってはなんですが、昨年、一昨年とアクターズセミナーのオーディションで優秀な成績をおさめた者を、画家や、モデルや、学芸員の役で使ってもらえないでしょうか?」
 │なんだ、お前の推せんする人物は無名に近い連中ばかりじゃないか。絵描きでいえば佐伯祐三や絹谷幸二というようなのはいないのか?
 「はじめはみんな無名の新人です。誰かが評価してくれなければ、彼らも浮かばれません」
 │控えい、頭が高い。
 そこで目が醒めた。

昭和15年生まれ

ドラマ プロデューサー 小林 由紀子

ドラマ プロデューサー 小林 由紀子 40代のころ。それなりに責任のある仕事を任され、夜も昼もなくドラマ作りに張り切り、あろうことか連日深夜に及ぶ飲み会。それは気の狂ったような、傍迷惑な言動の日々だったかもしれない。が、その原動力は、私の頭の中がずっと20代でストップしていたせいだ。「寝るのがもったいない」「お酒になんか負けない」。新人の頃のがむしゃらさが、知力も体力も既に衰えていることに見て見ぬふりをして私を支えていたのだ。
 それはまた、甘えでもあった。何かコトが起きれば、「まだ自分は未熟なんだから」と逃げようとする。いつも誰かに助けてもらいたがっていた自分。20代の時のように。
 そして、6回り目がやってきた70代。気がつけば40代でやっていた仕事のやりかたそのままに寄りかかろうとしている自分がいる。息子や娘のような年代ばかりのスタッフの現場で、賞味期限をとうに過ぎた理屈を並べたてている。そして分かってもらえない疲労感を抱えて、手摺りにすがりながら地下鉄の階段を昇る。
 頭と肉体の、このすり合わすことのできない誤差を、いつになったらピタリと照準を合わせることが出来るのか。
 ただ、どんな形であれ、ドラマに対する「熱」だけは、次の年おんなになっても失いたくないと思っていることだけは、確かなことだ。

昭和27年生まれ

フジテレビジョン 河毛 俊作

フジテレビジョン 河毛 俊作 「カキフライ」

 「新年の抱負」とは何の関係もないが、カキフライが好きだ。揚げたての熱々に、リーペリンのウスターソースをかけて、炊きたての白い御飯とともに食するのは、秋冬の無上の楽しみのひとつである。11月の半ば、もう良い頃だと思い、毎年、美味しいカキフライを食べさせてくれる老舗の洋食屋に向った。
 ところが、メニューにカキフライの姿はなかった……店の人に尋ねると、今年は震災の為に岩手産のカキが手に入らないのでカキフライを出すことを断念したとすまなそうな顔で言った。カキフライはその店の秋冬の名物で楽しみにしている客も多い。商売のことだけを考えれば、何食わぬ顔をして他の産地のカキを使ったカキフライを出しても殆どの人は気付かないだろう。しかし、店主は岩手産のカキが手に入らないのならカキフライは提供しないという苦渋の決断をした。カキフライに有り付けなかった僕は小海老のフライを食べながら店主の決断に対して心の中で拍手した。小さなことかもしれないが、彼の決断は震災の苦しみから立ち上ろうとする人たちへ贈られたエールであり、本当に気に入った素材が手に入らなければ商品は提供しないという〝作り手〟としての客に対するメッセージであると感じたからだ。60年になろうとする人生の中で「新年の抱負」など考えたことは一度もなかったが、2011年、あの店のメニューからカキフライが消えた年に日本で何が起きたかを忘れない確かな〝作り手〟でありたいと今、思っている。

昭和39年生まれ

TBSテレビ 鈴木 早苗

TBSテレビ 鈴木 早苗  早いもので会社に入ってからの年数のほうが、退社するまでの年数よりもずっと多くなってしまった。
 「昔は1インチのテープが重くってね」なんて話をしてもADさんたちはちんぷんかんぷん。
 きっと私が入社した頃に「編集は実際にテープを切ってやっていたんだ」とお話しされていた先輩方と同じように見えているのだと思う。
 世間的には立派な管理職になっていなければいけない年齢である。
 会社での肩書きも、一応「管理職」の私だが、いまだにこうして現場でやらせてもらっている状況に感謝している今日この頃。
 次の年女を迎えるのは、「定年退職」の年だと思うと、あまりのことにぞっとする。
 去年までの「12年」は、それ以前の「12年」と同じように日々の雑事にまぎれて過ごしてしまったが、これからの「12年」は1年、1年噛みしめながら、後輩に煙ったがれないような「生涯現役」を目標に過ごしたいと思っている。

昭和51年生まれ

日本映画衛星放送 樋渡 典英

日本映画衛星放送 樋渡 典英  はじめまして、樋渡典英と申します。ヒワタシノリヒデと読みます。若輩者です。
 「抱負」。語源を無視して普通に読むと「負」を「抱」える。不思議な言葉ですよね。ダメ男を描き続ける作家西村賢太氏の「廃疾かかえて」というタイトルと少し似てますね。
 簡単に私の自己紹介をします。1976年兵庫県出身。大学卒業後テレビ番組制作会社を経て今の会社に入社し、時代劇専門チャンネルを担当し始めたのが7年ほど前。昨年、「時代劇法廷」というドラマとバラエティが合わさったような番組で思いがけずギャラクシー賞選奨を頂きました。CS局としては初だそうです。
 さて話は戻って「抱負」です。マイナスを抱える。スピードとか拡大といった威勢のいい言葉にうさん臭さを感じがちな何事につけ歩みののろい私(でも元陸上部なので走るのは得意)としては、抱負とはなかなか素敵でチャレンジングな響きのある言葉に思えます。いや、実を言うと、プラスな表現に対して違和感を感じることがだんだん少なくなっているということに気づきました。それはきっといいことでもあると思いつつ、抱負さんありがとう。原点(こだわり)というのは大事ですよね。
 今年は年男。36歳になります。まだ36歳なのか、もはや36歳なのか。
この仕事、ポジション的にも何かを決定しなければいけないことが多いわけですが、だからこそ何と言うか、いろいろ決めつけずにやっていければなぁ、と思っております。

只今撮影中

NHK  ドラマ番組部 チーフプロデューサー  磯  智明

NHK  ドラマ番組部 チーフプロデューサー  磯  智明

大河ドラマ『平清盛』
天才・松山ケンイチと3人のライバル

 大河ドラマ50年にあたる「平清盛」。従来の悪役像とは全く違う、時代を変えていくエネルギッシュな男として平清盛を描きます。演じるのは若手演技派・松山ケンイチさん。彼との俳優陣の真剣勝負が大きな見所のひとつです。
 10月。栃木で行われた「競い馬」の場面。清盛の好敵手である源氏の御曹司・源義朝役の玉木宏さんと馬によるレースシーンです。平安時代からある馬術を競うイベントのひとつ。二人ともフキカエなしで挑みました。義朝が勝つと台本にありますが、走るのは馬。ただ早く走れば良いというのではなく、馬を操り台本通りにレースを演じ切らなければなりません。ともに馬術技量が試されます。
 初共演の二人ですが、玉木さんは松山さんについてこう言っています。「久しぶりに闘争心をかき立てられる役者」。乗馬経験はほとんどなかった玉木さんは、この半年間練習に没頭しました。一方、完璧主義者である松山さんもこの日を目標と定め、時間があるとレッスンに通いました。お互いにどの程度上達したかを探りあっていたと聞いています。
 完成したシーンは台本通りですが、馬術に勝る松山さんがあたかも玉木さんが勝ったように馬を操ったというのが本当のところのようです。それは玉木さんも分かっていて、この借りはまたどこかで返すと言っています。
 藤木直人さんが演じる歌人・西行は、出家前は清盛と一緒に武士として活躍していました。11月。京都・下賀茂神社で清盛と西行が流鏑馬を競うシーンがありました。流鏑馬とは馬に乗りながら矢を的に当てるという最高難度の武芸、指導の先生でも3回のうち1回当たれば良い方です。
 馬上で矢を射ること自体が大変で、藤木さんは的を落とさずとも、そのシーンを演じきりました。一方、松山さんは5回挑戦して、3回当てるという天才的な運動神経を発揮しました。ところで台本上は、清盛は1つも当たらず、西行が的を3つ連続して落とすと書かれています。放送では松山の命中場面は出てきません。それでも、松山さんは完璧を狙いました。藤木さんは松山さんについて、僕よりも8つ年下だがベテランのような貫禄がある、と評していました。
競い馬写真 12月に入ると、松田翔太さんとの収録が行われました。彼が演じるのは後白河法皇という終生のライバルとなる人物。松山さんと同様、演技派として評価の高い松田さんは彼との初競演を心待ちにしていたようです。それは探りあいから始まりました。「僕がこう動いたら、翔太くんはどうする?」と松山さんが提案します。松田さんはしばし考え、体を動かす。それを受けて松山さんが芝居を考える。
 松山さんについて共演者がよく言うのは、一回一回微妙に芝居を変える、ということ。だからこそ、受ける役者も力量を試されるので、油断できないと言います。初収録を終えて松田さんが言ったのが「時間が足らない」。カットが掛かっても、まだまだ松山さんとの芝居を楽しみたい感じでした。
 松山さんの年代は才能豊かな役者が揃うゴールデンエイジ、松山さんと芝居がしたいから出演するという人もおりました。日本を代表する出演者たちの豪華競演に是非注目していただきたいと思います。1月8日放送開始です。

只今公開中

角川書店 映画製作部 プロデューサー  岡田 和則

角川書店 映画製作部 プロデューサー  岡田 和則 映画『源氏物語  千年の謎』

 「温故知新」という言葉があります。故きを温ねて新しきを知る。
 『源氏物語』を製作する旅はまさにこの言葉のようでした。
 千年の時を越え、何故、今『源氏物語』なのか? 
 世界最古の恋愛小説といわれる『源氏物語』。今までも幾度も映像化されてきました。そして、不思議と10年に一度というサイクルで映像化されています。今作も同様でした。
 題名は日本人であれば誰でも知っていますが、内容となると平安時代に書かれた物語で、作者は紫式部であり主人公が光源氏であることぐらいという方も多いのではないでしょうか? 実はこの私も作品に携わるまでは同じ様なものでした。
 今回、映画化するにあたり〝今までにない『源氏物語』〟をと思い製作にのぞみました。サブタイトルに「〜千年の謎〜」とありますように、謎を解き明かすストーリーとなっています。それは「『源氏物語』の物語の世界」と「作者の紫式部の現実の世界」を交錯させて描き、『源氏物語』は何故書かれたのかという謎に迫っていきます。
映画『源氏物語  千年の謎』 撮影にあたり、まずは撮影場所を決めなければなりません。今までの映像化ではセット撮影を中心にしていたといいます。今作は、自然の光を大切にしたいと思っていました。まずは、現存するオープンセットがある、岩手の「藤原の郷」を撮影場所としました。ここでは主に「物語の世界」を撮影しました。清涼殿を使い元服式、青海波を舞踊する場面など御所の帝がらみの場面。元皇太子妃である六条御息所の邸のくだり。そしてもうひとりの愛人である夕顔のくだりを撮影しました。
 今回の作品で一番大きな決断をしなければならなかったのは土御門邸のオープンセットを造るか否かでした。制作プロダクションの光和インターナショナル、そして監督、メインスタッフと熟考を重ねました。土御門邸は時の権力者の贅を尽くしたお屋敷です。オープンセットを立て込む時間と費用面を考えるとなかなかの難問でした。
 しかし、結果的には、土御門邸のオープンセットを造って大正解でした。
 まず、スケール感が出たこと。自然光をうまく取り入れることが出来たこと。それにより、とかく現実離れした世界と思われがちな平安時代を今作では平安時代にタイムスリップしたかのように体感していただけると思います。有名な「源氏物語絵巻」も『源氏物語』が書かれてから100年後に描かれた世界です。写真などがなかった時代に明治時代の様子を今描いているということです。そう考えれば色々の創造がふくらんでもいいのではないかと思います。
土御門 『源氏物語』は平安時代の流行小説だったのではないかと思われます。そのことを考えれば、当時の世界観をうまく再現していけば時代は違えど流行の恋愛映画として皆様に観ていただけるのではないかと思います。今作は光源氏の青春時代を描いた恋愛映画です。
 そのように感じていただければ難解と思われる古典の世界もなんだか興味深い新しい世界に見えてくるのではないでしょうか。

私の新人時代

東映 近藤 正岳

東映 近藤 正岳  曩時、東映洋画配給部は、洋画を配給することから洋画系の劇場にかかる邦画実写作品や宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」などアニメ作品の製作、宣伝、配給にその業務内容を転換していく最中であった。
 六ヶ月のいささか長い研修期間を終え配属され、まず上司から習ったことは、会社では深作欣二監督「里見八犬伝」上映館別興行予算表の作成、プライベートでは競馬であった。その上司は映画のイベントを府中東京競馬場で開催すべくJRAにコネを作り以降馬主等が陣取る特別席への出入りを既得権とする。私もイベント当日下働きとして主演の薬師丸ひろ子さんや真田広之さんらがジェットヘリで競馬場に降り立ちポニーレースを行ったりJAC面々が乗馬スタントを繰り広げたのを目の当たりにしてその規模の大きさに感心したものだった。作品は、83年年末に東宝スカラ座系で封切られ20億超の配収を獲得し、私は、その後数年「馬しかいない大人の動物園」に入り浸ることとなり少ない給料の一部を失った。
 そのあと、すぐに洋画宣伝室に異動して渡辺典子さん主演崔洋一監督作品「いつか誰かが殺される」の製作宣伝を担当する。大学時代に自主映画サークルにいたのが初めてプロの現場に張り付くことになる。次回作の「友よ、静かに瞑れ」の沖縄ロケ前に一緒に沖縄に行かないかと軽く誘ってくれたが、私は既に他作品の現場に行くことに決まっていた。不甲斐ないことにその後崔監督とは仕事ができていない。
 翌年、「BE-BOP-HIGHSCHOOL」の製作宣伝で故那須博之監督の現場に付く。印象に残ったのは那須さんの良い意味での出鱈目さ、アナーキーさだった。ほんとに面白かった。(詳しくは同作品のアクション担当の高瀬将嗣さんの著書「技斗番長」の項を読んでいただければその一端を感じていただけると思う。)那須監督は爆ぜるようなひとで、ほんとに爆ぜるように生きて亡くなった。  あれから、さまざまな方々と一緒に映画の現場で仕事をさせていただいた。那須さんだけでなく最近いろいろな人が現場から去っていかれた。いろんな映画を残して。もう、四半世紀も経ってしまったのだ。

2012年エランドール賞 授賞式・新春パーティーのお知らせ

  ドレスコードはありません。※会場内の撮影は禁じます

  会員の皆さまの多数のご参加をお待ち申し上げます。

事務局だより

○正会員入会

○賛助会員退会

インフォメーション

◎会議の記録と予定