「半沢直樹」「あまちゃん」の大ヒットで週刊誌や新聞の文化欄には「ドラマ復権」というような文字が躍るようになった。正確に言えば「家政婦のミタ」が30%の視聴率を獲得した時あたりからか。ドラマにいささかでも携わる人間として、悪い気はしないが、逆に違和感も覚える。
私自身、長らくテレビ局で編成を担当してきて知ったことは、「全放送局の連続ドラマ枠の総時間が増えると平均視聴率が下がる」こと、言い換えれば、「どこかの局でヒットドラマが生まれると、他局もドラマ枠を増やし、結果、粗製乱造、品質低下を招く」ことである。またマーケティング重視から、制作者の作りたい、想いの強い企画が無視され、喫緊のデータから割り出された、当たりそうな作品を現場に強要することから、どこも類似した作品が並び、視聴者に「新鮮」さや「意外性」「未知なる発見」を届けられず、「どこのチャンネルを廻しても変り映えしない」という諦めを持たせてしまう「愚」を重ねてきた。
そんな自己反省の気持ちを持ちながら、私はここ10年、ドラマの低迷を歯がゆい思いで見つめてきた。同時に、多チャンネルでネットの時代、タイムシフト視聴される、パッケージ型コンテンツ、特にテレビドラマは「いくら見られていてもリアルタイムのテレビ視聴率には反映しないので、広告主は喜ばない」と、放送ビジネスに向かない番組であるという意見が業界内に生まれていることにも強い危機感を抱いていたが、その意味では、一種の社会現象にもなるドラマのヒット作品の連続は、そんな暗雲を吹き飛ばすものであり、うれしい限りでもある。
放送局はドラマの持つ商品力を再認識し、ドラマ制作に情熱を燃やす関係者を取り巻く環境の整備にもう一度、眼を向け直し、その「志」が折れる事の無いように考えを改めて貰いたい。
ところで、日本のテレビドラマを海外発信したいとスタートした「国際ドラマフェスティバル」も今年で6年になる。
その精神は当然ながら「我々のメッセージがドラマという形態を通して広く世界に受け入れられる。そして、日本のテレビドラマがソフトとして海外にも通用する商品性を持つことを立証する」ということにある。
しかし、本意は日本の制作者たちが、国内の視聴率や広告主のニーズに拘束され、自信があっても作れない状況、閉塞感を打破することにある。
それを実現する為には、将来的に、広く世界という大きくて多様性を持つ市場を勝負のグラウンドとする状況を生み出すことだ。
別に、夢物語ではない筈だ。ハリウッドを例に出すまでもなく、韓国は既にその目標に向かい、我々の先を走っている。かつての香港にもその兆しはあった。
いや、日本でもアニメは既に国内以上に海外市場が勝負の場になっている。
制作者自らの内部から沸き起こるテーマや題材に合わせて自由に作品作りの機会を生み出していこうという夢を大事にするならば、このような試みや挑戦を絵空事とみてはなるまい。
幸い、「クール・ジャパン」の掛け声に乗って、この8月下旬、オールジャパンで日本の放送コンテンツを海外に発信流通させる為の「放送コンテンツ海外展開促進機構」という社団法人が総務省の支援を背景に、NHK、民放連、各権利団体が参加して設立された。この組織は「ドラフェス」がこれまで実施してきた様々な例やスキームを参考にして運営していくことを考えているという。
果たして、どの程度、政府からの財政的支援があるのかは未知数だが、これを機会に政府が本腰を入れて、コンテンツの海外展開に取り組んでもらえることを期待したい。
いずれにしろこのような試みが成功するか否かは、我々制作者が如何に世界に目を向けて、多様な作品を生み出せるかどうかに懸っていることだけは間違いない。
時代劇の撮影で京都・太秦の撮影所に数か月詰めている。うちの(松竹)撮影所には大部屋と呼ばれる俳優が10数名いる。彼らは映画やテレビの撮影を影となり日向となってしっかり支えてくれている。ご存知のように時代劇の撮影では、通行人とはいえ一般のエキストラを使うことはできない。かつら、衣裳、小道具はもちろん、所作ひとつとっても、時代劇でなければならない。通行人、長屋の女房連中、酒場の客、露天商など、何をやらせてもぴたりとその時代の役になりきり、リアリティを出さなければならない。彼らはエキストラではない。優れた技能をもったプロの役者なのである。うちの撮影所には必要不可欠な存在である。そんな大部屋の役者たちも当然のことながら無名である。無名でも撮影では与えられた役を見事に演じる。目立たないように目立つ。京都の撮影所にいてその存在をつくづく実感する日々である。
来たる12月1日(日)、東京は西新宿アトリエクマノに、例年の如く無名の俳優たちが一斉に集う。プロデューサーやディレクターの前で自分の個性や演技力をアピールする。有名な人だけが俳優ではない、無名の中にも優れた俳優は存在する。どんな小さな役でもきっちりこなす。そんな俳優たちとの出会いをプロデュースするのが、恒例のイベント「アクターズセミナー」。今年も開催する運びとなった。ワークショップやオーディションなど参加者には貴重な経験となるはず。そしてその経験がもとで、目立たなかった者が目立つようになるかも知れない。夢は膨らむ。
映画『ガッチャマン』
2013年8月24日(土)から全国ロードショーされている映画『ガッチャマン』(配給:東宝)のプロデューサーをしております日活の田中正です。
映画『ガッチャマン』の原作は、1972年に放送がスタートしたTVアニメ「科学忍者隊ガッチャマン」です。平均視聴率21%(最高視聴率27.1%!)という驚異的な数字を残し、この成功により、その後「新造人間キャシャーン」「破裏拳ポリーマー」「宇宙の騎士テッカマン」とタツノコプロから次々とヒーローが生まれ、さらに大人気となった「タイムボカン」シリーズへと続いていくことになります。
1973年生まれの僕の「ガッチャマン」体験は、再放送と1978年からの「科学忍者隊ガッチャマンⅡ」、1979年からの「科学忍者隊ガッチャマンF」です。とにかく毎週ワクワクドキドキしながらテレビに噛りついていたことを本当に覚えています。まさか数十年後に自分が実写映画化しようとするなんてことは露知らず。
この映画は、"ガッチャマン"が大好きだった僕が、今考える"ガッチャマン"です。僕の世界観の"ガッチャマン"なのです。
これは映画『ガッチャマン』の佐藤東弥監督の言葉です。東弥監督は中学生時代に、リアルタイムでTVアニメ「ガッチャマン」に夢中になり、そのワクワクドキドキ感を再現したいとずっと考えられていました。僕も実写映画化するにあたり一番大切に思っていたのは、コスチュームやストーリーの再現よりも、幼い頃に「ガッチャマン」をテレビで見たときの興奮を再現するということでした。
東弥監督が参加されてからの企画開発は一段とスピードを増し、後に脚本の渡辺雄介さんも"東弥監督の参戦で、ギアが一段上がった"と表現していました。脚本の方向性が見えてきた頃、同時にキャスティングも進み、松坂桃李、綾野剛、剛力彩芽、濱田龍臣、鈴木亮平と次々と決まっていく中で、より映画『ガッチャマン』のワクワクドキドキのカタチが明確になっていきました。
一方いろんなことが明確になるにつれ、企画開発段階から想定していたものの、撮影準備の段階でCG合成やフルCGシーンが合計1000カット以上になることがあらためて分かってくると、VFX担当の白組チームの表情がより一層引き締まり、その引き締まった表情は初号を迎える直前まで緩むことはありませんでした。企画開発当初から、「東京の既視感のある場所を舞台にしたガッチャマンらしいアクションシーンを夜間ではなく昼間の設定で撮ろう」というのが合い言葉のようになっていました。『デスノート』や『GANTZ』などの経験から昼間の設定は、VFXチームへの負担が非常に大きくなることは重々わかっていましたが、「昼間に新宿の高層ビルの合間をビュンビュン飛び回るガッチャマンが観たい!」というワクワクドキドキをおさえることは誰も出来ませんでした。
企画開発から撮影、仕上げ、そして劇場公開に向けたプロモーション。僕らはずっとワクワクドキドキしていました。この原稿は劇場公開直前に書いていますが、僕らのワクワクドキドキをいっぱいに詰め込んだ映画『ガッチャマン』を観て、多くの方々にワクワクドキドキしてもらえていると祈っています。いや、信じています!
高校時代、有志で8㎜自主映画を作り"ドラマを作る仕事をするぞ"という気持ちに火が点きました。何のツテもなく悶々と3〜4年が過ぎ、何とか最初に就けた仕事はドラマではなく、歌番組やバラエティーの美術のアルバイトでした。歌手が降りてくるセットのエレベーター操作、チャリティー番組の『只今の募金金額は…』の電光掲示板表示とか、大道具さんに混ざって『××音楽祭』の大掛かりなセットの建込等。聖子ちゃんやピンクレディー全盛でそれなりに楽しい日々でしたが、志していたドラマからは縁遠く、約4年の歳月が過ぎた頃、知人の紹介でようやくテレビドラマのディレクター面接のチャンスを得ました。昭和57年2月、前の晩にホテルニュージャパンで大火災が起き、片桐機長の逆噴射で羽田沖にジェット機が墜落した日の面接でした。「ADは給料安くて、寝られなくて、怒鳴られまくるよ。止めといた方がいいよ」ディレクターの口からいきなりのストレートパンチ。私は聞く耳持たず、夢を叶えるべく即座にお願いをしました。最初に就いたのは、4月から2クールの連続ドラマのフォースでした。始めてみると面接時のディレクターの言う通りでしたが、酒だけは、必ず先輩が奢ってくれましたし、その時が仕事を覚える一番の場でした。『撮影現場では背を向けろ』これはペイペイの人間が芝居を観ても何の役にも立たないから車や通行人の整理をして現場に貢献しろという意味。『とにかく声を出せ』現場の活気をなくすなということと、絶えず現場の中継をすることで物事を伝える術を身につけろという意味。ちょっと成長してロケハンを任された時『まず自分でコンテを考えてから探せ』芝居を組み立ててから背景を考えろという意味。以上3つは、あれから30年以上たった今でも、解釈は違えど教訓にしていること共に後輩に伝えていきたいことだと思っています。
藤本一彦(ふじもと かずひこ)
テレビ朝日編成制作局制作2部プロデューサー。1958年生まれ。制作会社5年D組、角川映画を経て現在に至る。1982年よりテレビドラマの現場に携わり、助監督、監督を経験してプロデューサーとなる。関わった主な作品は、「味いちもんめ」「踊る大捜査線」「菊次郎とさき」「電池が切れるまで」「黒い太陽」など多数。
秋の親睦ゴルフ会を次により開催致します。ぜひご参加下さい。
※初めて参加される方は事務局までご連絡下さい。
一般社団法人 日本映画テレビプロデューサー協会 親睦委員会 電話/03-5338-1235