あけましておめでとうございます。
新年の挨拶もさることながら、まだ年の瀬に訃報がはいったお二人の余韻が重く漂っている方も多いと思われます。高倉健さんと菅原文太さん。二つの巨星が墜ち、一つの映画の時代が終わった、と僕も深い感慨に浸っています。
僕らの時代は、映画は育った時代の記憶でした。あの映画は高校生の時、あの映画は大学生の時、青春のひと時を映画と重ね合わせて生きてきました。映画はまさに〝夢〟でした。なかでも健さんと文太さんは、〝男〟を教えてくれました。〝男の生きざま〟を見せてくれました。「あんな男に、なりたい」、映画館の中でそう思っているうちに、いつの間にか無意識のうちに精神的な支柱になっていたようです。訃報に接した時に覚えた、ぽっかり穴の開いたような欠落感は、そうとしか考えられません。
それは、映画の一つのスタイルの終焉と感じた方もたくさんいたでしょう。特にプロデューサー諸氏はお二人の実像を見聞きなさっている方も多いでしょう。映画人としての生き方も、お二人に教えられること大であったと思われます。
一つの時代が終わりました。そして、もう一つの時代が生まれます。映画はもう、お二人のようなスタイルを持つことはないのかもしれません。しかし、確実にまた違うスタイルで生き続けていくでしょう。
昨今のテレビもまた、しかりと言えます。昨年は二、三の突出した番組はありましたが、総じてテレビドラマの数字は退潮傾向にあります。見られてないわけではない、録画が多くなっただけという意見もありますが、人々の口の端に上らなくなってきているのも確かといえるでしょう。もはや、作家が誰だからとか、演出がどうとかいう、署名入りの番組はほとんど姿を消しました。
経営側はネット、ウエブも含めたメディア戦略に確実にシフトしています。テレビは主要ではあるが、一部分となりつつあります。つまりここでも、一つの時代が終焉を迎え、もう一つの時代に入ろうとしています。
すべてが、2020年オリンピックに向けて、時代の流れが急速に変化していくようです。テレビの4K、8K問題も混沌とした中で、強引に引っ張られていくでしょうし、重村副会長の主導する国際ドラマフェスティバルもまた、アジアに向けて動きを急にしていくだろうと思われます。
その急速な流れのなかで、ソフトの重要性が次第に重きをなしてきています。新しいソフトを生み出す力が、経済の側面でも、文化の側面でも、決定的に状況を変えていくと考えられます。技術革新が国家再生の主要な柱なら、もう一つの柱が、新しいソフトを生み出す力だと言っても過言ではないでしょう。世界は急速に縮まっています。我々の新鮮で、こまやかな感受性が世界を変えるという自負心を、今こそ持とうではありませんか。
本協会の前身である「日本映画製作者協会」が設立されたのは、昭和二十九年のことでした。私にとっては東宝入社二年目、東宝では「七人の侍」と「ゴジラ(第一作)」が、松竹では「二十四の瞳」が公開され、大映の「地獄門」がカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した年でした。この時期はまさに、戦後の映画黄金期と言われていた時代でした。
時は流れて昭和四十五年、テレビドラマ担当プロデューサー多数の参加を得て、「日本映画テレビ製作者協会」となり、その後昭和五十一年、「社団法人」として再発足することになって会名も「日本映画テレビプロデューサー協会」と改称されて今日に至っています。
法人化の準備の頃から事務局の仕事を手伝っていた私は川口幹夫会長に大変なお世話になりました。昨年の突然の訃報は本当に悲しい出来事でした。第二~三回東京国際映画祭の「ヤングシネマ」部門の業務一切を当協会が引き受けた時、川口会長は陣頭指揮にあたって下さいました。また、志願してこのプロジェクトに参加し東北欧の作品選定を担当された大山勝美氏も鬼籍に入られました。
その後私は「映画祭」の仕事に専念することになりましたが、お陰様で、四半世紀にわたったこの仕事を一昨年末で卒業致しました。
食糧難と生命の危機にも耐え、戦前・戦中・戦後を経験した昭和一桁生まれの生き残りとしては、余力の続く限り、映画界に対してささやかな恩返しをしたいと考えているのですが…。
高倉健さんが逝った。
昭和六年二月誕生の健さんは、未年の早生まれだった。私は一回り下の昭和十八年一月生まれだ。
若い頃は、少しでも大人に見られたく、昭和十七年午年と時々嘘をついた。しかしこのごろは、健さんと同じ未年の早生まれが嬉しく、正直に語るようになっている。
今、私は九州の片隅で、たまに仕事をしながら生活している。
思えばここ数年、俳優・監督・スタッフの皆様が、生きづらくなったこの世の中で、精一杯戦い、燃えつき、悠然といなくなった。
果たして、私はそれらの人々に、顔向けでき、後ろ指をさされないような、まっとうな生き方をしてきたのか?
高倉健さんには、二度程お世話になっている。
「刑事物語」はクレジット・タイトルなし、ノーギャラというご好意で出演していただいた。
しかし、次の「海へ See you」では、私の能力不足もあって必ずしも満足していただけなかった。いつの日か、お会いする機会があったらと思いながら歳月が流れ、健さんは鬼籍の人になった。
優柔不断な私の性格が災いし、御礼も、お詫びも出来ず、今となっては悔いが残る。
映画館のないこの街で、テレビ・ビデオ等で新・旧の映画を観ながら考えている。
私は、これから先も、生き恥をさらしながらまだまだしがみつくのか!
日活に入社し撮影所で制作進行として映画に関わって35年以上の月日が経とうとしている。その間、様々な会社やプロダクションでそれぞれの作品に携わってきた。
プロデューサーの仕事の多くは問題が起きた時にどう対処するかに尽きる。企画の段階でも撮影時でも仕上げでも人間が創っている以上、問題は次々に起こってくる。それを如何に解決していくか。この仕事は人との出会いが全てなのかもしれない。監督、脚本家、スタッフ、キャストは勿論、ロケーション現場での地元の人達との出会いも大切だ。1990年春「天と地と・黎明編」という時代劇の合戦シーンを福島県の飯舘村の村営牧場で撮影した。エキストラや騎馬隊を地元の人の協力で揃え、食事や宿泊も支援してもらったが、現在原発事故のため避難地域になっている。2006年の夏、宮城県の気仙沼で一ヶ月に及ぶロケを行った。撮影終了時に地元の人達を交え打ち上げを行った。津波でスタッフ、キャストの泊まった旅館もメインセットの家も倉庫も流されてしまった。「海へ See you」というパリ・ダカール・ラリーを舞台にした映画に1987年頃からロケハン、撮影と二年近く携わった。サハラ砂漠が主な撮影場所だった。ニジェール、マリ、モーリタニア、アルジェリア等は現在の状況では再訪は不可能だろう。だがそこで出会った人達との思い出や関係は私の財産だ。年頭にあたりこれからもより良い出会いを求め仕事をしていきたいと思う。
「年男」の抱負ということで、考えたこともなかった48歳という年齢について、ざっくばらんな感想を書いてみます。まず感じたのは、この文章、出来ることなら24歳か36歳の時に書きたかった、ということです。48歳。何だか中途半端な響きで、「年男」の決意というマッチョな要求に応える言葉が浮かばないのです。日々の実感レベルではどうでしょう? 肉体はもちろん、集中力、ひらめき、あらゆる面で下降線を辿っていることは否めません。かといって心の成熟にはほど遠い。右肩下がりの現実を受け入れられない中途半端な精神状態。あぁ、まるで日本そのもの。あぁ、高齢化社会。どんどん暗い気持ちになってきました。さらに感じるのは、自分がつくるモノまで高齢化していくのでは? という恐怖です。老いた視聴者に対応すべく「安心感」のあるモノが求められ、そこに、落ち着いた大人の仕事がしたいという作り手の気持ちが拍車をかける。結果、ただ「安定」しているだけのモノが出来てしまう。あぁ、48歳って怖い。実はこの48歳的な感じが、世の中から「刺激」や「毒」をパージしているのではないかと思うのです。中途半端な大人たちが、明らかに間違っていることに対しても、誰も何も言わない世の中の空気をつくっていく。無理やりにでも、マッチョな決意が必要なのかもしれません。よし、今年は圧倒的に「刺激的」なモノをつくってやる。そろそろ「老害」という言葉も視野に入った48歳の抱負です。
20代半ばの頃、ひと回り上の先輩たちに、「ラム」とあだ名をつけられた。(ちなみに、その方々は自分たちのことを「マトン」と言っている(笑))キャリアとしては、今でもまだまだ「子羊」という感じなのだろうが、肉体的にはそんなかわいいことを言っていられない年齢なんだな、ということを、3度目の年女を迎えるにあたって改めて自覚した。
2015年の抱負―。かっこよく何か仕事のことを書ければよかったのだが、2月から2度目の産休をいただく予定です……。
2012年秋に初めての出産を経験、翌年夏に仕事復帰をして、仕事でも家庭でも周囲に助けてもらいっぱなしで何とかドラマ作りをさせていただいてきたが、東村アキコさんの育児マンガのセリフの様に「すいません、育児ナメてました」というかまだまだ自分は世の中を甘く見ていた、と痛感する2年間だった。
このまま仕事を続けていていいのか? とさえ頭をよぎった。子どもが1人でもそんな状態なのに、2人となったらどうなってしまうのだろう??
しかし…なぜか今、根拠もなくとても前向きな自分がいる。
2015年はきっとさらなる試練の年。その試練を楽しもう、そう思う。
だって、ドラマ作りも子育ても、色々あるけどやっぱり楽しい!
「チャレンジングではあるが、不可能ではない」。私の好きな女性の一人、宇宙飛行士の山崎直子さんに教えていただいたこの言葉を胸に、36歳を迎える子羊は、年内の仕事復帰を目指して、新たな1年を駆け出したいと思います。
2015年大河ドラマ「花燃ゆ」の制作統括の土屋勝裕です。大河ドラマの制作に関わるのは今回で4本目ですが、制作統括として企画開発から関わるのは初めてです。「篤姫」「龍馬伝」と続けて幕末を舞台にした大河ドラマの制作に関わったあと、次は幕末の長州を舞台に大河ドラマを作りたいと思っていたこともあり、幕末の長州を調べ始めてみました。しかし、魅力的な人物は多いのですが、どの人物も帯に短しタスキに長し、とくに男性主人公となると、難しい政治の議論が中心になってしまいそうで、視聴者の共感を得られにくいのではないかという危惧がありました。近年の大河ドラマでは成功裏に終わった「篤姫」の経験を生かして、史実に縛られない女性主人公の方が、フィクションを盛り込んでよりドラマチックに描いていけるという確信もありました。そしてリサーチの末にめぐりあったのが、吉田松陰の妹の文さんです。幕末維新の思想的原動力となった吉田松陰の妹、そして革命家久坂玄瑞の妻、さらに明治になって姉のもと夫である楫取素彦(小田村伊之助)と再婚するという劇的な人生を送っています。松下村塾の塾生であった伊藤博文、高杉晋作、吉田稔麿、品川弥二郎、野村靖ら、そうそうたる志士たちとも知り合いでした。夫・久坂玄瑞の死後、毛利家の奥女中となり、お世継ぎの守役という大役を引き受け、さらには夫が愛人との間に作った子供を引き取って久坂家を継がせるという、波瀾万丈の人生です。文さんの生涯を描くことで、難しい政治の話を描きつつも同時に、庶民目線で感情移入できるドラマが出来るのではないかと思いました。実際、萩の博物館でいろいろな人の話を聞きながら、この文さんの存在を知った時は、胸がドキドキと高まり、この人物を描いてみたい、という欲がムクムクと沸き起こりました。実際に企画が決まってからは、台本づくり、キャスティング、地元への挨拶など多忙な日々が続きました。今まで大河ドラマをあまり見なかった視聴者の方にも見てもらいたい、という一方で、今までの大河ドラマファンも納得できる大河ドラマであるべき、ということで広報の手法や台本・キャスティングまで様々な議論を積み重ねてきました。歴史を知らない人でも楽しめる一方で、歴史を知っている人でも楽しめるドラマ、どちらかを諦めることは簡単ですが、諦めずに粘り強く取り組んできました。そして、ようやく第1回の編集が終わり試写を見た時には、蘇った文さんとともに人生の一歩を踏み出したような不思議な感覚に囚われました。これから幕末の動乱が激しさを増していくにつれ、文の人生にも次々と困難が襲います。兄の処刑、夫の戦死、そして家族や仲間たちの死。ドラマの制作もこれからが山場です。いろいろな困難を乗り越えて、強く逞しく生きた文に負けぬよう、これからの1年間頑張って行きたいと思います。大河ドラマ「花燃ゆ」楽しみにしていただけたら幸いです。
いまや俳優の登竜門として、すっかり定着してきた感もある「アクターズセミナー」。映画、テレビ各社のプロデューサーが一堂に会するオーディションの場は、チャンスを求める若手にとって自らをアピールする絶好の機会でもある。昨年も11月30日(日)、47名の参加を得て、東京アナウンス学院アトリエクマノにて開催された。
午前中はワークショップ。講師は映画監督の冨樫森さんで、高野悦子『二十歳の原点』を題材にした2つの場面を、受講生がそれぞれ割り当てられた役で演じた。冨樫氏が一貫して伝えようとしていたのは「ハートで演じること」。
自分の出番が来る前に気持ができているかどうかで既に勝負は決まっているという指摘は、受講生にとって貴重な示唆になったのではないだろうか。当たり前と言えば当たり前のことなのだが、そこが抜け落ちたままその場でテクニカルに演技を処理しようとする傾向が、意外に多く見られたように感じられる。学生運動を背景にした題材のため、いまの若い世代には感情や思いが理解しにくい側面もあったとは思うが、今回の経験を生かし、台本を表面的に捉えるのでなく、人物の背景にまで思いを馳せた演技を期待したい。
午後は持ち時間2分30秒で、自由に自分自身をアピールするオーディション。通常と違って特定の役に向けてのオーディションでないだけに、題材の選び方が大きなポイントとなる。それだけに評価採点の仕方には難しいものがあった。個人的な感想だが、このテキストのここを演じたいという情熱や、自分のここを見てもらいたいという強い意志というより、最近演じたシーンやオーディション、ワークショップの課題など、手っ取り早く様々な側面を見てもらえる素材を選んだ人が大半だったのではないか。
もちろん少しでもチャンスをつかみたいと願う気持からなのだろうが、どんなに器用に素材を演じて見せたとしても、制作側が出演者に求めるのは単にそうした対応力ではなく、何よりも演じ手の側からほとばしり、否応なく届き来るものにあるとあらためて感じた。他の審査員の方も講評で述べていたが、オーディションをする側が受ける側から寧ろ教えられることも少なくない。オーディションは単なる審査の場ではなく、見る側と演じる側、相互のコミュニケーションの場なのだ。実際の現場に入ればなお一層のことだろう。
審査発表前には、各審査員と受講者が直接語り合うアクターズセミナー名物「出会いの広場」が設けられた。実践的なアドバイスもさることながら、受講生にとって初心に立ち返り、自らを見つめ直す場になったのではないだろうか。杉田審査委員長の総評で、「自分は本当に俳優という仕事で生涯生きて行きたいのか考え抜き、それでもやむにやまれず俳優の仕事を選ぶというのでなければ、違う生き方を探したほうがよい」という意味の言葉があったが、厳しくもあたたかいはなむけであったように思う。
アクターズセミナー賞には昨年も4名が選出されたが、多くの審査員も語っていたように結果はたまたまのものに過ぎない。どのようなかたちであれ、この日の経験が多くの受講生の糧になってくれれば、何よりのセミナー開催意義と言えるだろう。
(アクターズ委員 NHK 陸田元一)
(いわいどう せいこ)
1984年2月生
(モノポライズ所属)
生きてる実感ってなんだろう。この手で確かな何かが掴めなくても、明日も芝居が出来ればそれで私は生きようと思える。 私は芝居が好きです。
気付くのに10年かかったけど、何があってもこれからもこの世界で生きていく。
(なかがみ さつき)
1989年5月生
(レディバード所属)
あがり症の殻を打ち破りたいと思い、度胸試しに参加しました。各社大物プロデューサーさん達を前に、一人で2分半の演技が出来たなんて、かなり贅沢な時間だったのと、最高すぎる機会であったと感じています。
(やぎ はるみ)
1989年3月生
(フラッシュアップ所属)
アクターズセミナー賞にお選びいただき、ありがとうございます。これは私へのエールなのだと思います。この素敵な賞に感謝と敬意を込めて、ただひたむきに思いっきり走っていきます。今、熱く燃えています。
(よりた こうじ)
1983年1月生
(ワンダープロ所属)
俳優は常に人の想像を超えなければならないと言われてきました。
この賞を頂いて改めて考えました。自分は審査員の皆様の想像を超えることが出来たのだろうか? いや、まだまだ超えることが出来ていないと。「想像を超える俳優」になるべく精進していきます。ありがとうございました。
(五十音順)
日時 2015年2月5日(木)18時受付 18時30分開会 20時30分閉会予定
会場 会場 新宿京王プラザホテル南館5階 エミネンスホール(立食形式)
パーティー会費
ドレスコードはありません。※会場内の撮影は禁じます
◆会員の皆さまの多数のご参加をお待ち申し上げます。