2月5日(木)京王プラザホテルにて、今年もエランドール賞授賞式が行われました。
予報の通り朝から雪! ご出演の皆様が時間にいらっしゃれるか、観客の皆様が足を運んでくださるか心配でしたが、おかげさまで例年通りの盛り上がり。今年は弊社(テレビ東京)が進行を務め、MCには弊社アナウンサー須黒清華がさわやかに登場! 華やかに授賞式が始まりました。
日本映画テレビプロデューサー協会の杉田会長、文化庁文化部芸術文化課の加藤敬様のご挨拶、そして日本脚本家連盟の中島丈博理事長のご発声で乾杯の後は、プロデューサー賞の授賞式です。
プロデューサー賞の映画部門で「永遠の0」プロデューサー、東宝上田太地さん、アミューズ筒井竜平さん、ロボット守屋圭一郎さんが3名様で受賞されたのをはじめ、今年は受賞者多数でした。受賞者の方のお話が盛り上がりみなさん聞き入られて、いつもは賞と賞の間にご歓談タイム? が設けられるのですが、今回は歓談タイムほぼなしという良いテンポで進行していきました。
また、昨年のアクターズセミナーで受賞されたみなさんが、エランドール受賞時の舞台上の動きをお手伝いしてくださったのですが、今回は受賞者多数のため、マイクを持ったり、トロフィーを受け取ったりと大活躍して頂きました。岩井堂聖子さん、中上サツキさん、八木春美さん、頼田昴治さん、本当にありがとうございました。
そして、最後は待ちに待った新人賞受賞式。
池松壮亮さん、北川景子さん、斉藤工さん、黒木華さん、鈴木亮平さん、そして二階堂ふみさんという、今最も旬な6名の受賞者の登場に、会場が沸きに沸きました。
受賞者プロフィール紹介のナレーションとともにそれぞれの番組の名シーンがスクリーンに映し出され、会場の皆様は、日本の映画テレビ界に素晴らしい俳優の皆様が続々誕生していらっしゃることに、改めて感動されたのではと思います。
またエランドール賞のもう一つのお楽しみは、受賞者のお祝いに駆け付けてくださる特別ゲストの皆様です。
今年は、吹石一恵さん、中田喜子さん、吉田鋼太郎さん、中原丈雄さんなど、観客の皆様を大いに楽しませてくださいました。
特に、二階堂ふみさんのお祝いに駆け付けてくださった竹中直人さんは、なんと大河ドラマ「軍師官兵衛」の装束で会場後方から登場、会場の皆様をかき分けながら舞台に上がるという演出に、会場の盛りはピークに達しました。
今回幹事を務めまして改めて感じましたことは、舞台裏の動きの重大さです。日本映画プロデューサー協会の皆様、エランドール委員会の皆様がリハーサル時からしっかりとご指導くださり、また受賞者、そしてゲストの皆様を素晴らしくアテンドしてくださったことで舞台上をなんとか滞りなく進めることが出来ました。この場をお借りして皆様に御礼申し上げます。来年のフジテレビさんはきっと余裕で進められるのではと思いますが、多くの方に引き継がれ完成した授賞式、心を込めて引継ぎさせて頂きます。誠にありがとうございました。
『さいはてにて~やさしい香りと待ちながら~』
きっかけは2004年8月、一冊の雑誌に掲載された記事でした。それは、石川県の奥能登の海辺、まさに「最果て」の地で舟小屋を改装して培煎珈琲店を営む、自分と同年代の女性主人の半生について書かれたものでした。読み終え、「なんでこんな不便な場所にある珈琲店に人々が集い、かけがえのない場所になっているのか」という疑問が湧き、最果ての絶景、舟小屋、珈琲培煎、女主人といったキーワードと共に「これは映画になるかもしれない」と直感しました。東映に入社以来海外セールスを担当して10年、自分の手で製作し海外に出してみたいという願望が芽生えていたその頃でした。
原作のないオリジナルストーリーをいかに作りあげるか、何度もプロットを上げては直しの日々が続きました。やがて脚本家から、さいはて「にて」誰かを待つ女のイメージと、「生き様の違う女がさいはての地で結ぶ友情」というテーマが返ってきました。そうして上がってきたプロットは、生き別れになった父を待つ女性と、一緒に居ながらバラバラの親子がさいはての地で心を通わす物語でした。「家族」という最小単位の関係性さえ崩壊しつつある今、誰かと共に生きる喜びを描くことは意味のあることだと確信し、脚本作業に入りました。
一方、監督選びを進める中、2009年、国際営業部の仕事で台北金馬映画祭に参加し、そこで台湾出身の撮影監督・李屏賓(リー・ピンビン)の半生を追ったドキュメンタリー『乘著光影旅行』を観ました。その作品を監督したのが、台湾の女性監督・姜秀瓊(チアン・ショウチョン)でした。エドワード・ヤンの作品で女優としてキャリアをスタートさせた監督ゆえの、人物に寄り添った演出、丁寧でリアルな手法は他の作品にも共通していて、『さいはてにて』は説明過多ではない、良質な大人向けのドラマを目指したいと思っていた我々の方向性に合っていると感じました。同時に、日本人と感性の近い台湾人の監督ならきっと脚本を理解していい作品にしてくれるはずと。何より国際営業部からのプロデューサーとして、挑戦してみたいと思いました。2011年、台北に飛び、正式にオファー。3月11日、日本が大変なことになっていた、まさにその日でした。
姜監督、そしてロンドンで活躍していたキャメラマン・真間段九朗氏の参加、台湾と韓国の出資が入ったことで共同製作映画となった本作を、早々に海外で展開したいと考えました。バンクーバー、釜山、ロンドン、他メジャー映画祭へ出品し、台湾・韓国・香港の他東南アジア14ヶ国での公開が決まりました。
気付けば着想から10年経ってしまいました。やっと出来上がったかという感慨と、沢山の支えてくれた人達に不義理を働かなくてよかったという安堵感があります。
初めてプロデュースしたこの作品がどう皆さんに届くのか、期待と緊張の日々を過ごしています。
「私の新人時代」というタイトルをいただいてから随分と時間が経ってしまった。仕事が忙しかったこともあるのだが、常に頭の片隅には早く書かなくてはという思いはあった。入社してから30年近い時が流れたのだから色々と題材はある。ADの頃の失敗談やユニークな上司たち。怖かった出演者や、遅筆の作家の笑える言い訳。メールや携帯もなかった時代もあるのだからもはや時代劇として書くこともできるのではないかと構想は膨らんでいた。
しかし、いざ書こうと思うとどうもうまくいかない。自分が体験した事であるのにどこか嘘っぽく感じてしまうのだ。個々のエピソードはあってもそれを語る口調が見つからない、といったら大げさだろうか。
そもそも「私の新人時代」というタイトルが求めていることは、ある程度のキャリアを重ねた、つまり、「もはや新人ではない」人間が自らの新人時代を振り返り、若き日とは違った視点で何かを語るということであろう。当然、語り手には経験による成熟があり、洗練があり、何より時の流れが生み出す余裕というものが滲み出しているはずである。
無理だ。残念ながら僕にはそんなものは欠片もない。働いてきた時間の分だけ様々な経験は重ねた。しかし情けないことに成熟も洗練も進歩もない。今もユニークな上司に振り回され、怖い出演者やマネージャーにびくびくして、遅筆の作家を急き立て、次々と失敗を繰り返しては余裕なく日々走り回っている。これでは「私の新人時代」が書けるわけがない。だって私の新人時代は今も何ら変わることなく続いているのだから。
いつか、僕にも「私の新人時代」というタイトルで文章が書ける日がくるだろうかと自問しながら、老眼鏡をかけ人間ドックの問診票をうめている。
《日時》 平成27年4月17日(金曜)
《場所》 越生ゴルフクラブ
《会費》 20,000円(プレー費、パーティー費、賞品代含む)
《締切》 3月27日(金)事務局必着
※初めて参加される方は事務局までご連絡下さい。
一般社団法人 日本映画テレビプロデューサー協会
親睦委員会 電話/03-5338-1235