あけましておめでとうございます。
僕にとって、昨年一番インパクトを感じた出来事は、9月のネットフリックスとアマゾン・ドット・コムの日本市場参入でした。多くの人が予想していた通り、インターネットを使った定額制動画配信サービスが一気に本格化しました。
各テレビ局の戦略はそれぞれですが、テレビ離れが鮮明な若年層を考えると、動画配信に乗り出さざるを得ないでしょう。テレビ局だけでなく、通信業界やレンタル業界など、10を超えるさまざまな事業者が名乗りを上げています。
どの程度市場が拡大するのか、いろいろ推測が出ていますが、もはや後戻りはできないので、今後は、テレビ局も映画会社も動画配信を踏まえた制作ビジョンを考えていくことになるでしょう。
経営戦略のことはさておき、僕が最も関心をひかれるのは、ネットフリックスとアマゾンがオリジナルの作品を制作することです。
ご存じのように、ネットフリックスは又吉直樹氏の『火花』を10話のドラマにし、完成後は全話一斉に全世界配信します。「ハウス・オブ・カード」と同じやり方です。
またネットフリックスは「ビースト・オブ・ノー・ネーション」という映画の全権利を買って、10月に劇場公開と配信を同時に始めました。これには米国の4大劇場チェーンが公開を拒否したので、小規模な公開になったそうですが、初めからネットフリックスは公開収入をあてにしておらず、オスカーにノミネートされる資格がほしかっただけだといわれています。
「ハウス・オブ・カード」がエミー賞を受賞して以来、ネットフリックスには多くの脚本家やプロデューサーから電話が殺到したそうですが、「ビースト」がオスカーを獲ると世界の映画製作者が名乗りを上げるかもしれません。
動画配信だと、放送法や劇場ビジネスの制約を受けず、作りたいものを作れるかもしれないという思いが脚本家やプロデューサーにあるからです。
またプロの制作者だけでなく、インターネットの世界にはすでにさまざまな作り手が生まれています。先行する音楽業界に続いて映像の世界にも今までとは異なる出自の作り手が出てくるでしょう。
動画配信が世界の潮流になっても、ソフトの重要性は変わらないというのは、その通りですが、どうもテレビ局や映画会社の存在を前提にしていた今までのような作り方や作り手ばかりではない時代が、日本でも現実に始まったと、僕は感じています。
その中で、プロデューサーである僕たちはどのような立ち位置を見つけていけばいいのでしょうか? ひいてはこの協会もどのような存在になっていけばいいのでしょうか?
この一年も、大きな変革の流れの中で、一本ずつ制作を積み重ねながら、未来を見据えていく試行錯誤の日々になりそうです。本年もよろしくお願いします。
「老いの坂は上り坂」
気がついたら72歳。ドライバーは極端に飛ばず、歩いていると女学生にも追い越される。「ゴルフは気楽に、人生急ぐ必要なし」と、己の老化ぶりは納得しながらも、こんな強がりも言っている。「老いの坂は上り坂だ」
ぼんやりと我が道を歩んできてしまった私は、この年になっても、やり残しも多く、その後始末に未だ汗をかいている。逆に言えば、まだまだ伸び代があると勝手に思い込み、未熟を逆手に、「坂の上の雲」ではないが、明治の若者気取りで、未だ坂道を上っているつもりでいる。そんな生き方は、日々新鮮でもある。元々蓄えの少ない知識や経験が、日々更新され、日々新しい視界を与えてくれるからだ。ドラマを見て改めて気づく新しい視点、通い慣れた道筋で見つける新しい楽しみ、長年の友人の隠れていた新しい魅力の発見、些細かもしれないが、老いての学び直しは多く、日々変わる眼前の景色に興奮している。次の申年、どんな景色を見ることになるか、また楽しみだ。強がりかもしれないが、そう思っている。
現在公開中の「杉原千畝 スギハラチウネ」は映画化を熱望した企画でした。チェリン監督、飯沼・和田倉Pの奮戦ももちろんのこと、主役の唐沢寿明の演技は千畝が乗り移ったかのような素晴らしいもので、公開当日に来日してもらった杉原サバイバー(千畝がビザを発給したユダヤ人)シルビアさん(83歳)から生の千畝像を直接伺える機会もあり、スタッフ・キャスト全員が75年前の千畝の決断を一人でも多くの人々に伝えたいという気持ちで一つになれたのも初めての経験でした。
また、正月第二弾の「人生の約束」は巨匠石橋冠(池中玄太80キロ他)第一回監督作品で、大井紀子Pとのおしどり夫婦が完成させたこの作品は、みずみずしさと円熟味あふれる演出が見事にミックスされ、見る人すべての心をわしづかみにする、感動作品となりました。竹野内豊、江口洋介をはじめ日本を代表する俳優、映画人が石橋冠監督を男にしようと結集しました。
そして、一月末に公開のシリーズ最終作「さらば あぶない刑事」。私がどうしてもとお願いしたのが二つ。タカとユージの定年。そしてタイトルに潔く"さらば"をつける、でした。この作品の大きな原動力は、我らが黒沢満プロデューサーです。村川透監督、仙元誠三撮影監督。この三人の年齢を足すとなんと237歳。でも、まだまだ、若手が追いつくことのできないお三方です。
この冬はシニア向け三部作、と言われる作品が続きます。今年も日本テレビ映画をよろしくお願いします。
1巡目・1980年。札幌の団地に住むテレビっ子。当時の海外ドラマはほとんど見ていた。「アトランティスから来た男」の最終回を見逃したくない一心で、自分の誕生日の外食をパスした(家族は出掛けた)。「小児病棟」がもの凄く衝撃的だった。
2巡目・1992年。青森放送局の1年生。「ゆく年」中継を終えて弘前の寺で迎えた正月。翌日、ローカル紙の告発で大騒動に。5月に初めて全国放送のドキュメンタリーを担当、一輪車競技で日本一を目指す中学生の話だったが「最後に同じ弘前で、汚名を返上できて本当によかったよ…」と、異動することになった局長の言葉に、組織人の悲哀をしみじみ学ぶ。青森は3局目の民放ができたばかりで、不思議な時間に別の系列で「あなただけ見えない」を見ていた。
3巡目・2004年。二度目の育児休職中。夫の駐在先のバンコクで2ヶ月ほど過ごす。タイでも平日午後はドラマの再放送で、見慣れない華流や韓流のドラマがいっぱいだった。(日本に韓流ブームが来るのはこの年の春から)「ショムニ」のみなさんもタイ語を話していた。4月に復職、子育てしながら再放送業務を担当し著作権実務のイロハを学んだ。
さて、4巡目・2016年。4つの老眼鏡を使い分けながら仕事するお年頃。若い世代にどうやって時代劇をPRするかが課題の日々。「"岡っ引き"が分からないから時代劇は難しい…」という声に愕然としつつ、「時代劇はこんなにも自由で現代的!」とアピールして絶滅危惧種の連ドラ時代劇を死守しようと思います。新年は正月時代劇「吉原裏同心」とBS時代劇「大岡越前3」、どうぞよろしくお願いします。
生まれてこの方、新年の抱負を考えた事がないので、この歳になって初めて書く事になります。ここ1年管理職として過ごしているので、本来であれば弊社のドラマをどうしていきたいとか含めて書くべきかもしれません。ですが、いろいろと考えてみたものの、全く面白くなく、お目汚し必至。40にして惑わずと言いますが、とりとめのない考えに取り憑かれてしまう始末。しかし、ここでめげていては500文字強という課題をクリアできないので、もう一つのテーマである「年男」について考えてみたいと思います。
昭和43年。誕生。生まれてラッキー。
昭和55年。12歳。田舎なので娯楽が少なくひたすら勉強。映画館のおばちゃんに気に入られ、格安で観られたのが、ちょっとラッキー。
平成4年。24歳。フジテレビ入社。映画を作るつもりで入ったはずがデザイン部に。美大出身だからと言われたがグラフィックや映像メインの学業だったのでセット図面わからず。メディアの王たるテレビ局で徒弟制度という予想外の罠。アンラッキー。
平成16年。初期のCGやインターネットのコンテンツ制作に従事。その後、一人でCSチャンネルを立ち上げるなど、開発要員と化す。アンラッキー度、薄まる。
平成28年。紆余曲折を経てドラマプロデューサーになるも、とうとう管理職。人様を管理するなど自分に向いている訳もなく、惑いっぱなしで年男となる。今年がラッキーである事を願う。双六人生は続く。
私はあまり抱負といったものを意識しないで、新年を迎えてしまうことが多かったように思います。翌年の決まっている仕事に追われ、次はこうしようとかそういったレベルで考えてしまっていた。しかし、今年は3度目の年男である。しかもこのような会報に寄稿させて頂くとあれば例年とは訳が違う。
年末が近づいた頃、車内に流れるラジオから興味深い声色で聴かせる、ある料理人の話に釘付けになりました。それは、「美味しい料理」と「あったかい料理」の話。全く違う業種であるにも関わらず、どんなジャンルにも通ずる価値観とその方の逸話に心踊らされました。これだ! 自分も目指したいこと!
美味しい料理は世の中に幾らでもある。しかしあったかい料理だと言ってもらえるのは、相手への気遣い、受け手の懐への介入、そういったものまで追求しなければならない。基本的なことだが、私が学んできたことを再認識させてくれる話だった。そう、それって先輩方が教えてくれたことと一緒じゃん。
エンターテインメントの世界で、面白いだけではなく、懐に入り込む作品て何なのか。これまで以上に、そういった意味でのあったかい作品を意識したいと思う。次の年男の時にはどういった思いでいるのだろう。いや、つべこべ言わず目の前の2016年頑張ろう!
今年度より受賞者の方にはヒラタ基金よりトロフィーが授与されることになりました。
(いわざき なつみ)
1993年7月生
(テアトル・ド・ポッシュ所属)
大人数の前で演技をするのは初めてでしたが、賞という形で評価していただけて自信に繋がりました。第一線で活躍されているプロデューサーの方々に自分の演技を見ていただき、お話を聞ける機会はなかなかないので、本当に貴重な時間でした。今回のワークショップを通して、自分の今後の課題や改善点はもちろん、良い部分も発見することができました。学んだことをしっかり活かし、もっと成長できるよう頑張ります。
(さいとう まっちゅ)
1986年2月生
(マッシュマニア所属)
今回、腕試しのつもりで応募しました。無名の俳優として、このような自己アピールの機会に巡り合えるのはとても光栄なことです。
審査員の皆さまから、オーディション後の講評として俳優の何を見ているかなどのお話を伺えたのもとても勉強になりました。
緊張しましたが、非常に有意義な1日でした。
(ひじかた てつ)
1983年4月生
(現代制作舎所属)
今回、この様な素敵な賞を頂けたことに本当に心から感謝しております。
実は数年前に私の先輩が、この賞を受賞し受賞式で登壇する姿を会場で見て、その日からずっと夢を見て追い続けてきました。
正直今まで自分如きが、この実力でセミナーを受け、名プロデューサーさんの前で2分半の芝居をする事自体がおこがましい行為だと思い、応募することすら控えておりました。
今回、応募した理由は「この道に進む」という決意が固まったからだと思います。そして夢を叶えるチャンスを得た以上「必ず獲る」という強い気持ちと、「忙しい中、時間を作り審査して下さる皆様の心に残る様なリアルな芝居をする」この2点を意識してチャレンジしました。
2015年日本映画テレビプロデューサー協会アクターズセミナー賞を受賞出来て、今は素直に本当に嬉しいという気持ちですが、現実的に1年後には過去の栄光。
これから役者として頂いた仕事に対して120%で応えられるように何事にも全力で取り組み、憧れの先輩方の顰に倣って、日々精進して参ります。
(まつもと きよ)
1995年3月生
(Dressers所属)
今回のアクターズセミナーでは一日で本当に沢山のことを学ばせて頂き、また、自分の未熟さを痛感する貴重な機会となりました。何より、プロデューサーの方々が一人一人真剣に向き合ってくださったことが嬉しかったです。頂いたお言葉を胸に、これからも倦まず弛まず、役者として、人としての経験を積んでいきます。
(ももせ さく)
1994年7月生
(ホリ・エージェンシー所属)
アクターズセミナーオーディションに参加するのは二度目で、今回はぼくの中でリベンジという気持ちが強かったです。でも今回はオーディションの中でこれまでの自分とは違うお芝居ができているという感触がありました。まだまだ至らないところは多いですが、このような光栄な賞を頂いたことを励みにこれからさらに精進していきたいと思います。
(五十音順)
大河ドラマを担当するたび、手に取る本がある。NHKのOBである故・吉田直哉ディレクターの『私のなかのテレビ』(朝日選書)。吉田は、『太閤記』『樅ノ木は残った』などの演出を手掛け、大河ドラマの基礎を築いた一人。
吉田は、大河ドラマをつくる理由として、「『私たちはなぜ現在かくあるのか』という疑問」が根源にあるとしている。
そのため、現代劇で描きづらいことを、舞台を過去に移して描くことは厳しく戒めている。そのような手法には、「過去の人になりかわって憤りをおぼえる」と。一方、過去を無批判に讃美することの危険性も唱える。
ゆえに、「過去と現代との対話」こそが、大河ドラマの一番のねらいで、それは「『海外取材番組』をつくることに非常に似ている」と吉田は記す。「フランス人になる努力をしてパリを撮り、日本に帰って来て、日本人の立場でそれを伝える」。その作業を、時空を超越して行うことで「過去と現代との対話」が可能になると。
タイムマシーンで天正・文禄・慶長の時代へと旅し、当時の人間になったつもりで戦国の世を生き、様々な出来事を記録する。それを現代に持ち帰って再構成して放送する。それが、理想の大河ドラマ作りなのだと私も考える。
タイムマシーンの代わりとなるのは"時代考証"。史実や時代風俗について、幅広い分野の様々な研究家たちとの対話を重ねる。そこには、いつも新しい発見がある。
武将たちは全員が「天下取り」を目指し、領民を無理矢理に巻き込んで血で血を洗う合戦を繰り広げる…。これまで私が抱いていた戦国のイメージは、極めて浅く一方的なものであることも知った。
土地の境界線や、田畑に水を引くための権利…。村々の小さな紛争を解決するために武士が担ぎ出され、それでも収まらないために大名を巻き込んでの大きな戦争になってしまう、という真逆の順序が実状であったという。たくましい無名の生活者たちが大勢いたのだ。
『真田丸』の主人公・真田信繁も、天下取りなど考えたこともなかっただろう。毎日を必死に生き抜こうとし、明日を迎えるために知恵を絞った。
400年後の人々から見れば、昭和も平成も動乱の時代。しかし、私たちが特殊な人間でないように、戦国の人々も普通の人間だったはず。他愛もないことに笑い、悲しいことに涙する。
まずは登場人物たちにドラマの中でリアルに生活してもらうこと。それが、大河ドラマ作りのスタートであり、「過去と現代との対話」の始まりだと信じている。
そして、そこにこそ、「私たちはなぜ現在かくあるのか」を探るヒントがあるはずだ。
私がテレビ東京に入社したのは1991年4月。バブル景気の影響か、会社として後にも先にも? 史上最多の新卒採用数の年。最初の配属先は営業局CM部。番組制作とは程遠い部署で3年過ごし、異動した先が編成局映画部だった。映画や海外ドラマの放送権を買い付け、番組として放送するのが仕事の部署だ。番組制作に関わることになった"私の新人時代"とは、この映画部時代のことになる。
最初の担当番組は昼のベルト枠の洋画番組で、公開から少し時が経ったハリウッド作品の放送が多かった。異動後すぐに先輩から「編集機使える?」と聞かれた。制作経験のない自分が使えるはずもなく訳を聞くと、放送する映画は担当者が自分で編集するとのこと。早速、社内の編集室に連れて行かれ「とりあえず簡単な編集をしてくれ」と言われた。「簡単な編集」とは放送フォーマットに合わせてCMが入る部分を黒味にしたり、本編ロールの前後に捨てカットを付けたりすること。編集のイロハを教わりながら「簡単な編集」ができるようになると、次は「この作品、尺が長いからカットして」と指示が。パソコンでオフライン編集など出来るはずもない時代、TC入りのVHSテープを何度も見て編集点を決め、手書きで編集シートを作り、編集室へ…。そんな日々の繰り返しだったが、思い返すと恐れ多いことに、ハリウッド映画を教材に編集のイロハを学んだのだった!
さらに当時は、週に10本の映画放送枠があり日本語吹き替え版を制作する機会も多かった。英語台本から日本語の翻訳台本を作り、吹き替えの声優さんのキャスティングを考え、アフレコして、MA作業をしてと…。作品の買い付けに加え、番組として仕上げるまでの色んな制作シーンを経験させてもらった。「映画をいかにテレビ番組として仕上げるか」と苦心していた日々が、今は「いかに良いドラマを作るか」に変わったが、尽きることのないテーマに悩む日々はまだまだ続いている。
日時 2016年2月4日(木)18時受付 18時30分開会 20時30分閉会予定
会場 会場 新宿京王プラザホテル南館5階 エミネンスホール(立食形式)
パーティー会費
ドレスコードはありません。※会場内の撮影は禁じます
❖会員の皆さまの多数のご参加をお待ち申し上げます。